今週は9月24 日から27 日の聖書日課に与えられている詩編19編を読もう。 以下、いつものように、詩編を読み、気になった箇所、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編箇所を通して現代のわたしたちに何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編19編
8:主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。
9:主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。
10:主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。
11:金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。
12:あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。
13:知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。
14:あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。
15:どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。
私の場合は、とても気になる節として、13節の「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。」さらに後述したい。
詩編作者の状況を推察しつつ、詩編作者がこの詩編をどんな気持ちで詠っているのかをよく考えたい。 19編の8節以降だけを読んでいるが、簡単に1-7節にどんなことが書いてあったかを記しておきたい。1節には、指揮者によって、賛歌、ダビデの詩となっており、ダビデの状況を推察しながら、詩編作者が礼拝の賛歌として詠ったものだろう。2から7節で、天も地も太陽も、そして昼、夜という時までも、すべて神の創造のなかでおこっていて、なんら隠れうるものはない。 いわば、神の創造の壮大さ、完璧さが賛美されていたようだ。 そして8節から11節には、律法のすばらしさ、完璧さが賛美されている。 主の律法が完全で魂を生き返らせるようで、主の定めは真実で、無知なものは知恵を得る(8節)。主の命令は、ストレートに喜びすら与え、主の戒めは清らかで目を輝かせる(9節)。主を畏れることは清いことで、永遠に続き、主のなさる裁きは正しい(10節)。律法は、金や純金にも優って、価値があり、蜂蜜よりも甘い(11節)。12節以降は、神への語りかけ、祈りになってくる。あなたの僕である私は、あなたの律法を熟慮し、守ることで大きな報いを受けるが(12節)、律法を知らずに犯した過ち、そして、自分に潜んでいる罪から、どうか私を清めてください(13節)。この私を驕りから引き離して、それに支配されないようにしてくだされば、重き罪から清められ、私も完全になるでしょう(14節)。 どうか、私の話す言葉が、主の御旨にかなうものとなり、自分の思いが御前に置かれるようなものとなりますように(15節)。以上だが、13節あたりからは、ダビデがついつい自分勝手な思いからおかした罪の告白、反省が込められているようだ。
今日読んでいる詩編が現代の私たちに伝えてくれていることを考えたい。 上述した、13節を読んで、私は昔の記憶が蘇ってきている。 私にとっては、大きな二つの出来事だった。 最初は30年以上前だったが、ある友人が私にしたことが、とんでもなく私を傷つけ、私はこらえきれずに、友人を責めてしまった。しかし、その友人は、なんら私を傷つけたなどとは思っておらず、謝る気もなかった。 二つ目の出来事は、10年くらい前だったが、逆のことが起こった。私にとっては寝耳に水というか、その友人の考え方がとても信じられないという思いになってしまったが、ある友人が、一切悪気のない私のしたある行為が、彼を傷つけ、私に不満をあらわにした。 30年前の例は、私はある方の罪の被害者であるかのごとく、そして10年前の例は、加害者でもないのに、加害者ごときに扱われてしまったように上記には書いてしまった。 しかし、よーく考えると、どちらも、私に問題があったように思う。 そもそも考え方の違う人間同志、自分のものさしで、相手がこうするのは当然だろうという考え方自体には、問題がある。 詩編19編13節で、「知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。」と祈る詩編には、私たちの普段の祈りでもあるべきだし、この祈りにより、自分自身のものさしから、解放されるような要素があると思う。 アーメン
安達均