聖書日課で今週木曜12日から15日の聖日まで与えられている16編を読もう。いつものようにこの詩編を読んだあと、気になる、あるいはインパクトのある言葉や節を挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、よく考える。そして神はこの詩編16 編を通して現代の私たちに何を語りかけているか思いを巡らせたい。
詩編16編
1:【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってください/あなたを避けどころとするわたしを。
2:主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
3:この地の聖なる人々/わたしの愛する尊い人々に申します。
4:「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず/彼らの神の名を唇に上らせません。」
5:主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
6:測り縄は麗しい地を示し/わたしは輝かしい嗣業を受けました。
7:わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし/わたしの心を夜ごと諭してくださいます。
8:わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし/わたしは揺らぐことがありません。
9:わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
10:あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
11:命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の御手から永遠の喜びをいただきます。
気になる言葉や、なにかインパクトのある言葉はどこだろうか? 私にとっては、5節にある「主はわたしに与えられた分」という箇所。これはいったいどういう意味だろう?
詩編作者の気持ちを想像しながら、内容を吟味したい。最初に【ミクタム。ダビデの詩。】となっているが、このミクタムという言葉の意味はよくわかっていないので、ヘブライ語で使われる発音にもっとも近いカタカナで表現されている。ミクタムという言葉は、詩編16編のほかに、詩編56編から60編で使われいる。私は、これらの詩編が格言的なことを詠っているので、ミクタムには格言という意味があるのではないかと思っている。さて詩編の内容に入るが、全体としては、ユダヤの礼拝で詠われた讃美歌であり、1節から4節は神への祈願で、5節から11節は、ダビデの体験でありまた後の信仰者たちの体験、証を詠っているように思える。
神よ、あなたを砦とする私を守ってください(1節)。あなた以外には私の幸いはありません(2節)。 この地の聖なる人々、愛する人々に、「あなた以外の神を求めると悲しみが増してしまうので、彼らの祭りは行なわず、彼らの神の名は唱えなません」と言うようにします。(3-4節)。
主は私の一部分になってくださっていて、喜びの杯をくださり、私のすべての礎になってくださっている方(5節)。麗しい境界が示され、私にすばらしい土地を与えてくださった(6節)。 私を励まし、夜には私を諭してくださる主を賛美します(7節)。常に主がともにいてくださるので、私は動揺しません(8節)。だから喜びがあり、魂は踊り、望みをいだきつつ体は憩うことができる(9節)。聖なる主は決して、私の魂を死者の世界に送ってしまうことはなく、墓穴を見させず(10節)、命の道を示してくださる。あなたの存在により喜び満ち、あなたの右の手から永遠の喜びをいただきます(11節)。
さて詩編16編は、今日、私たちに何を語ってくれているのだろうか? 三点ほど、気付かされたことを書いておきたい。 一点目は、上記に5節の「主はわたしに与えられた分」とは、どういう意味か?と書いたが、つきつめていくと、「主が私の一部になってくださっている。」ということを、気付かされた。二点目は、私の友人で、特にキリスト教信者だとは本人は宣言していないが、キリスト教の大学を出て聖書の話しなども聞いていたのだと思う。その方は、起業して活躍しているが、自分が歩む道、仕事がうまく行くときも、困難なときも、自分の横に、もう一人の自分がいる。そのもう一人の自分がいるおかげで、自分は前に進んでいくことができる、と言われる。私には、「もう一人の自分」とは、自分の一部になってくださっている、主なるお方で、詩編16編の後半の証と同じことを語っているように思える。三点目は、そのお方、いつの時代になっても、私たち人間一人一人に、付き添ってくださっている方に感謝し、主を称賛し、いっしょに歩む人生を生きる中で、喜劇的なこと、悲劇的なこと、世の不条理をも味わうことがあろうが、喜びの人生の道を歩むことができる。 アーメン
安達均