February 11th, 2016

2016年2月11日 詩編を読もう:神に宿れるか? (詩編91:1-2, 9-16)

詩編を読もう, by admin1.

今年は、2月10日が灰の水曜日で、昨日から四旬節に入った。 イースター前日までの40日間(ただし日曜は除く)のことを言う。 四旬節の最初11日から14日の日曜、4日間にわたって、聖書日課に与えられている詩編箇所は、91編の1-2節と9-16節。 各自で読み、また、自分で聞き、いつものように、気になる言葉、あるいはインパクトのあった言葉や節は何かを挙げる。次に、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているか、考える。そして神は、今の私たちに何を語っているのか、思いを巡らせよう。

詩編91編
1:いと高き神のもとに身を寄せて隠れ/全能の神の陰に宿る人よ
2:主に申し上げよ/「わたしの避けどころ、砦/わたしの神、依り頼む方」と。
9:あなたは主を避けどころとし/いと高き神を宿るところとした。
10:あなたには災難もふりかかることがなく/天幕には疫病も触れることがない。
11:主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。
12:彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。
13:あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり/獅子の子と大蛇を踏んで行く。
14:「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。
15:彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。
16:生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」

インパクトのあった言葉として、「災難もふりかかることがなく、天幕には疫病も触れることがない。」との言葉。

詩編作者の気持ちを想像しつつ、この詩編が何を詠っているのか、考えたい。1-2節に詠われている「全能の神の陰に宿る人よ」が象徴していることは、いうなれば、完璧な信仰に生きる人ということに思える。 9節から16節に詠われている内容は、主を避けどころとし、神にやどっている完璧な信仰に生きる人なら、災難はふりかからず疫病にもならない(10節)。どんな道を歩もうが守られる(11節)。御使いたちが、その完璧な信仰者を手に乗せて運び、空中を飛んでも石にぶつかってしまうようなことはなく守られる(12節)。獅子や大蛇さえも踏みにじって歩める(13節)。主は「自分を慕うものだから、どんな災いからも守り、彼の名を高め(14 節)、彼がわたしを呼び求めるなら助け、名誉を与えよう(15節)。生涯、彼を満ちたらせ、救いを彼に見せよう(16節)。」という言葉で、詩編91編は終わる。 詩編作者が言いたいことはなんなのだろうか、私には、そんな完璧な信仰者はいるのだろうか?という問いかけをしているようにも思える。 もし、いるとすれば、神ご自身が、人間とならなければならないことを暗示しているように思えてくる。

さて、この詩編の言葉を通し、主なる神は、今日、私たちに何を語りかけているのだろうか? ここで、2月14日の四旬節第一主日に読まれる、ルカ福音書4章の1-11節に触れたい。 イエスが荒野で40日間にわたり、悪魔の誘惑を受ける話。その中で、悪魔は、詩編の91編11-12節を引用して次のように語っている。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』 また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」その悪魔の言葉に対するイエスの応答は、申命記6章16節の言葉を引用し、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」と反応する。 この悪魔とイエスのやりとりは、旧約聖書の言葉をまるで刀のようにして戦って、イエスが勝利しているような光景にも見えてくる。しかし、本当に大切なことは、刀を磨くような旧約聖書の知識に精通するようなことではないのだろうと思う。 もっと、簡単なことを、認識することではないだろうか? 詩編91編に詠われたような、完璧に神に宿れる人には、なりえず、自分自身に、自分勝手な思いがあり、罪(神から背いてしまうような思い)を伴って生きる自分がいること。なので、災難や疫病にかからないというより、地震にもあうしインフルエンザにもかかることはあるだろうし、獅子や大蛇といわないまでも、コヨーテだとかゴキブリでもトカゲでも、出てくれば怖がって逃げてしまうか、あるいはゴキブリに殺虫剤の力を借りて退治するような、ありのままの自分がいる。そのようなありのままの姿を、認識することではないだろうか。 安達均 

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