May 22nd, 2011

2011年5月15日復活後第3主日聖餐礼拝説教「羊飼いと羊」”The Shepherd and The Sheep”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

ヨハネによる福音書10章1-10節

「羊飼いと羊」 “The Shepherd and The Sheep”

今日の福音書の中で「羊は羊飼いの声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と書いてあります。羊が羊使いの声が分かるとは了解できますが、羊飼いは本当に、何十、何百と言う羊の声を聞き分けることができるのでしょうか? 私は都会生まれ、都会育ちですから、羊の声は皆同じに聞こえるのですが。ところで、日本の羊はメーメーですが、アメリカの羊はバーバーです。

ある小学校1年生の男の子を対象にしたアンケートで、自分がもし動物だとしたら、どんな動物になりたいかとの質問の答えは、ライオンが一番、熊が2番、象が3番、イルカが4番でした。羊は答えの中に出てきませんでした。しかしそれは男の大人にも言えることで、一番なじみのあるサービス・クラブはLion’s Club です。ついでに言いますが、アメリカの建国の時Benjamin Franklin は七面鳥をアメリカのシンボルにしたかったのですが、それにはかなりの反対が在り、決まったのは頭の白いBold Eagle です。

オーストラリア、二ユージーランドでは羊の数は人口の数より多いと聞きます。羊はアメリカの牧場では見ないわけではありませんが、アメリカと羊はあまりイメージが会わないようです。私たちの頭の中にも、羊のイメージとはか弱い、誰かに世話をしてもらわなくてはならない、あまり利巧でない動物と考えられているのです。

イエス様は私たちを愚かな、弱い、誰かから面倒を見てもらわなくては生きてゆけない羊だと言うのです。しかし私たちは私たちのシェパードである神様の声を聞き、イエス様に従って生きたい人間です。羊たちは自分の羊飼いの声を知っていて、それには従いますが、他の羊飼いの声を聞いてもそれには応答しないのです。羊が皆同じような顔をしているのは確かで、他の群れの羊と区別するには特別なしるしを羊の体に刻むのです。アメリカの牧場で育つ牛は持ち主の牧場の名前の焼印を押されます。火で焼かれた熱い焼印は牛だからこそできるのですが、羊には其れができません。その代わり、ある羊飼いに従う羊たちの耳にナイフで切り傷をつける習慣があります。特別の切り傷のしるしです。それにより羊が迷子になった時、その羊を見つけた羊飼いは、どの羊飼いの羊かすぐわかるのです。耳の一部をナイフで切られた羊も、それを行なった羊飼いも痛い思いを経験するのですが、それはどこの羊飼いに属するのかを知るための必要な印です。しかし自分の羊を本当に大切に世話をしている羊飼いたちは、同じような顔をしている全ての羊に何か特別な特徴があるのを知っています。叉、24時間羊と共に生活してきた羊飼いは一匹、一匹の羊を見るだけでその羊の性質も分かっているのです。その一匹、一匹に羊飼いは名前を与えているはずです。たとえば、それは、あだ名で、食いしん坊さん、泣き虫さん、のんびりさん、おこりぼさん、、そうです、顔だけでなく一匹、一匹の羊の性質も知っているのです。同じようにイエス様、神様は、私たち一人ひとりの名前も、性質も、全て知っているのです。覚えていますか、イエス様の話された迷子になった羊の話を?それは、ルカによる福音書15章にあります。「あなた方のうちに、百匹の羊を持っているものがいたとする。そのうちの一匹がいなくなったら、99匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは、捜し歩かないであろうか」。

ここでの答えは、「勿論です。そのたった一匹のために山を越え、川を渡って探し回るのです」。迷子になった一匹の羊はかけがえのない羊です。愛されている羊です。そのたった一匹のために、羊飼いは全力を尽くして探しまわるのです。私たちが道に迷った時、一人で帰り道も分からず途方に暮れている時、神様は必ず私たちを探しに来てくださると信じます。わたしとあなたという世界の中で本当に小さい存在の私たちを神様は何時も見守ってくださっているのです。

世界の、いや、宇宙の全てを司る神様はあなた方全ての人の名前を知ってます。そして、あなたの名前は神様の手のひらに刻み込まれているのです。私たち時々自分がなんて取るに足りない、意味のない人間だと思うことがあるかもしれない。しかしイエス様は私たち一人ひとりの名前を知っています。そして私たちを大切な人と見守ってくれているのです。同じように私たちの羊飼いであるイエス様に従っていく中で、洗礼を受ける儀式は神様の子どもとなることです。水で父と子と聖霊のみ名によって清められ、額に十字架をマークされたわたしたちは、羊飼いであるイエス様の信仰の群れに入るのです。羊飼いであるイエス様は誘惑に打ち勝つ力、お互いを大切にして生きる人生でなくてはならない愛の精神を私たちの中に育ててくださるのです。

最後に、Alfred Soord という人の画いた絵を見てください。Google でThe lost sheep と捜索すると色々な羊飼いと羊いの絵が出てきますが、この羊飼いの絵ほど必死に迷った羊を助け出したいとの思いが私たちの心に迫ってくるものはありません。            

                       The Lost Sheep                             何かGrand Canyon のような所で足を踏み外してどん底ではないが、かろうじて飛び出た岩にしがみついている羊です。一足でも間違った動きをすれば、それこそどん底に落ちてしまう。恐くて恐くて動くことさえできない。羊は自分だけでこの危機から逃れることができない。誰かに助けもらえなければ・・・泣きながら助けを待っていた羊が上のほうを見たとき、そこに自分の羊飼いを見出したのです。同じくそこには大きな鷲が飛んでいる。私を餌食とでも思っているのだ。ああ恐い、羊飼いさん、助けてください。あなたによるしか私は助けられません。救ってください。羊飼いは探していた羊が見つかって嬉しかった。しかし今や羊を崖の上まで導かなければ。そのために自分の命をも懸けて羊の所に降りてゆこう。そんなドラマをこの絵の中に見るのです。私が来たのは、羊が命を受けるためしかも豊かに受けるためである」。命を受けるとはどういうことでしょうか? 私たちは今ここで息をしています。心臓も働いていて、体の中に血をめぐらし自分しかも豊かに受けるためである」。命を受けるとはどういうことでしょうか? 私たちは今ここで息をしています。心臓も働いていて、体の中に血をめぐらし自分がしたいこともやっています。しかし生きていながら、生き甲斐を感じていない人、つまり、私の人生とは何だろうと感じることもあるのです。しかしイエス様を救い主を信じるわたし達はわたし達がどんな人生を送ってきた、送っているものであっても主を信じることで救われるのです。救われるということは助け出されるということです。

世界の宗教の中で自分の修行、行いによって救いを達成する事ができるという教えはあります。しかしキリスト教、イエス様を信じるわたし達は、人生の嬉しい時、悲しい時、全ての時に神様であるイエス様を信じ、神様から一方通行で与えられる神様の赦し、慰め、励ましを両手で受け取ることです。強いて言うなら、今ここでイエス様、私たちの神様は今ここで私たちを愛してくださっているのです。救われるということは愛されていることを確認することです。イエス様から愛されている羊である私たちを何時も守り、緑の牧場に導いてくださる方、イエス・キリストこそ私たちのかけがえのない羊飼い、わたし達はイエス様に従う羊です。アーメン。

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