主イエスの恵みと平安が集まった会衆の心に豊かに染み渡りますように!
日本語では、臥薪嘗胆という言葉がある。臥薪とは薪を枕にして寝る、嘗胆とは苦い肝を嘗めるという意味。 この四文字熟語が意味することは、苦労や忍耐を積み重ねて、目的を達成する。もう少し話すと、起源は中国でこの言葉が使われたはじめたが、その目的は、一度戦いに負けた相手に、仇を討つという目的だった。
さて水曜日からレント、四旬節に入った。レントというと断食をしたりして苦労・忍耐をする期間でもあり、臥薪嘗胆と関連がある。 しかし、レントで苦労・忍耐する目的となると、臥薪嘗胆の敵を討つこととはだいぶ異なる。 じゃ、レントの苦労・忍耐の目的とはどういうことなのだろうか?
福音書の内容に触れていきたい。 イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて、荒れ野に入っていき、40日間も断食したとある。 悪魔からの誘惑を受けるために、霊に導かれて荒れ野に入って行くって、いったいどういうことなのだろうか?
一つめの誘惑として、空腹を覚えているイエスに、「石をパンに変えたらどうか」と悪魔が話しかけている。 これは、この世の物質的なものに満足してしまい、神の霊的な恵みを忘れてしまう誘惑といえないだろうか。この誘惑に対して、イエスは「人はパンだけで生きるのでなく、神の言葉で生きる」と返答される。
次の「神殿の屋根から飛び降りてみろ」という誘惑は、自分だけの命を優先してしまうような技術とか神秘性に期待して生きる誘惑といえないだろうか。この誘惑に対して「主を試してはならない。」つまり、神を自分勝手な都合のよい神様にしてはならない。といわれているように思う。
三番目の誘惑は「高い山に連れて行き、国と繁栄をあなたに与える。」というものだが、世の権力や富を独占しようとする誘惑といえないだろうか。もっとも敬うべき方、拝むべき御方を、権力や富におきかえてしまう誘惑だ。 イエスは、「あなたの神である主を拝み、主に仕えよ」と語られる。
さて、三つの誘惑とイエスの対応が出てきたが、これらに共通していることがあるのだと思う。 「神との関係をおびやかす、さらには自分よがりになってしまう」誘惑なのだと思う。
それらの誘惑に負けないように、しっかり神との関係を保つ、主の意思に反することをしないように、また隣人との関係において、自分だけが目立ちたいとか隣人より自分が偉いのだとか、そういう欲を持たないように、イエスは導いておられる。
皆さんはこのレントをどういう気持ちで迎えたかわからないが、私は例年と違う感覚を持っている。 なぜ違うのだろうかということを考えると、いままでとはまわりの環境が大きく異なっているからだと思う。
復活ルーテル教会ではパートナーの牧師の交代時期にあり、今年のレントは、毎週水曜日の礼拝が、この復活ルーテル教会である。私も二回の水曜の夜の礼拝のメッセージの奉仕がある。
このレント中の教区の負荷に加えて、ルーテル教会での奉仕をたいへんだと思うより、レント中の厳しい状況に耐えるということに、なにか良いことが控えているという期待、希望を持っている。
ほかにも また社会を見るにつけ、世界中で、自分の国本意の、あるいは自分だけの地域がよければ良い、あるいは自分たちの人種よがりの考え方が、台頭してきている。
それは、ある意味、誘惑であり、人間社会が神の思いと反転するような方向にうごき、また人類がみな、尊敬し愛し合うべき隣人との関係をくずしていく勢力が伸びてきている現れだと危惧している。
だからこそ、今のレント、とても大切なのだと思う。この礼拝が終わったときには、みなさんは、誘惑だらけの荒れ野に出ていかれる。 マーケットやデパートで買い物にするにしろ、家でニュースを見たり、インタネットで何かの情報を得たいと探したりするにしろ、そこは神の関係を遠ざけようとする誘惑だらけなのだ。
この期間、みなさん一人一人、主のみ心とともに、それぞれの荒れ野に入って行こう。そこでどうかさまざまな誘惑を認識し、しかし誘惑に負けないように、神の意思とは反対方向のことをしないようにしよう。 なぜならレントで苦行、忍耐を経験する目的は、神との正しき関係を保ち、友人と知人の良き関係を持つことなのだから。
このレントの期間が終わるころには、世界の人々が神との関係を回復し、また隣人との関係を回復できると期待する。苦難や忍耐を伴う40日間の旅路は、み心に従って人々が隣人とともに神の働きのために立ち上がることを祈る。