March 10th, 2017

3月8日聖書観想

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聖書日課の拝読のちょっとした手助けになればと思い掲載しています。

週の半ばに、聖書日課の中から(1)週の初めに与えられた福音書箇所、(2)週前半の一つの新約箇所、(3)次週聖日の福音書箇所、(4)週後半の旧約箇所から一箇所について、牧師が思い巡らせたことを載せています。 

3月5日(日) マタイ4:1-11
イエスが誘惑を受けた40日間の聖書箇所、今一度読み、なにか迫ってくるものがあるのではないだろうか? 私にはイエスが「神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる」と語られたことがせまってきている。 然りと感じ、聖書に記述された神の口から出た言葉のパワーを感じる。 ところで三つの誘惑に対してイエスが答えている権威ある言葉は、すべて、申命記からの引用だ。 「なんだ、イエスはよく旧約聖書を勉強して、適宜、引用しているだけだ」と思うこともできてしまう。 しかし、イエスはもともと、創世記の前からおられた父なる神と一体の御方であり、申命記の中につづられた、神の口からモーセに語られ、伝承・記述された言葉は、もともとイエスが語っておられたと、三位一体を信じるキリスト者は考えられる。 

3月7日(火) ヘブラ4:14-5:10
「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから」という言葉には、共感するものがありまた励まされる。 この地球上に生まれてこられたイエスという一人の人間だが、その御方は「天を通過された」と語られているのは、上述したように、もともと天の父なる神と一体であった方。 そして、そのお方は、聖霊としていまもわたしたちの近くに、またわたしたちの中にまで宿っている。 その方とともに人生の旅路を歩めることの喜び、はげみが湧いてくる。

3月12日(日) ヨハネ3:1-17
アメリカではヨハネ3:16が一番愛されている聖句だとよく言われる。しかし、イエスがどういう話の脈略のなかで、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を受けるためである。」という言葉を語られたかを知る人がどれだけいるのだろうか。 1-15節の中で、ニコデモがしつこいくらいに質問し、イエスが答えている内容は、キリスト教信仰の核と関連していると思う。洗礼のときになにが起こっているか。 

3月10日(金) ミカ7:18-20
「これほどまでに咎を除き罪を赦される神がほかにあろうか、」と神の言葉を預かったミカは訴える。「主は再びわれらを憐れむ、」とミカが伝える神はどういう方なのだろうか。 四旬節にあって、十字架にまで架かって民の罪を赦される、繰り返し憐れんでくださる主なる方を覚える。私の卒業した浅野学園という中学高校は、校訓に二つの言葉があり、ひとつは「愛」、もうひとつが「九転十起」。 「愛」はキリストの教えから来ていると思っていたが、九回転ぼうが十回起き上がれるという九転十起の源には、神の憐れみ、赦しがあって、そんなことがおこるということに気づかされた。映画「沈黙」をご覧になった方には、キチジロウの生き様に、九転十起を可能にする主の憐れみを見ることができるように思う。

水曜の夜の礼拝においても、主の愛、憐れみが豊かに顕れますように!

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