3月12日(日) ヨハネ3:1-17
ニコデモの質問に「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と答えられたイエス。ニコデモという教師が単刀直入に質問をしていてくれたことに感謝したい。 また、イエスのこの答えが聖書に描写された中に、とにかく洗礼を受けていただくことを勧めるしっかりした根拠を覚える。
3月14日(火) 第一コリント10:1-4
この短い箇所に、出エジプトに書かれていた、放浪していたともいえるイスラエルの民に、霊なる水や食べ物が与えられていた神の愛の導きが凝縮して表現されているように思う。 この世がどんなところかわからずにオギャーと生まれてきた者に、自分で先がわからなくなってしまっても、しっかり頼れるものがある。洗礼であり、御言葉を聴くこと、そして聖餐に預かること。世に言う幸福とはことなるのかと思うが、喜びに満ちた人生の旅路につくことができる。
3月19日(日) ヨハネ4章5-42
一日にちょこっと読む聖書箇所にしては、長い。しかし一連の出来事、物語といっても良いかと思うが、生きた水を注いでくださるのは神の子イエスであることが描写されている。その霊的な水は、さまざまな人生の壁(人種の壁、男女の壁、村民社会にある壁)をかかえていたサマリア人女性に注がれ、彼女の周りの壁が壊されてゆく様子を伺える。
3月16日(木) 出エジプト16:1-8
エジプトを出て、イスラエルに戻るたびについたユダヤ人の集団は、その旅の苦しさ、食事の無い苦しさに文句を述べる箇所が描かれている。 週の後半は、出エジプト16章の残りの箇所が読まれ、神は辛抱づよく、天から食べ物をふらせ、人々を満腹させる。そこに神の愛を覚える。 現代において、さまざまな人生の体験から、神に不満をはっきり言う者、あるいは、なんらかの理由から教会をきらいだという者もいる。 しかし、神の愛は、そのような方々にも注がれていることを覚えたい。