March 22nd, 2017

2017年3月22日聖書観想

聖書観想, by admin1.

3月19日(日) ヨハネ4:5-42
サマリア人とイエスの会話、この長い箇所を今一度読んでいかがだろうか。サマリア人社会はユダヤ人から差別を受けていた中で、しかも、その社会の中でも疎外されてしまっていた女性が、救い主イエスの強力な伝道者になっている。 

3月21日(火) 第一コリント 10:1-4
「偶像への礼拝に対する警告」と書かれた22節からなる箇所の最初の4節だけを読む。 「霊的な岩」こそキリストとのこと。 霊的な岩とはどういうことを言っているのだろうか? 旧約聖書で、ユダヤの民が出エジプトの際に体験した霊的な食べ物や水とも関連があるし、上述のヨハネ4章のなかでイエスがサマリア人へ語っていた、「父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。」と語られたあと、イエスが自分がメシアとの宣言もされている。 礼拝堂にマリア像があったり、極端な例は、十字架がかざってあったりしても、それらを偶像だという方がいて、ちょっとびっくりしたことがあった。 マリア像をおいているカトリック教会や、十字架をおいているほとんどすべてのキリスト教会は偶像礼拝をしているのだろうか? すべてか、どこにでもおられる父と子と聖霊なるお方を礼拝するのに、マリア像も十字架も大きな意味があるように思えるのだが。 

3月22日(水) ヨハネ7:14-31 37-39
今週は水曜のスープサパーの後の礼拝で読まれる水曜の聖書日課にある福音書を読んでおきたい。14-31節は、ユダヤ人たちとイエスのやりとり。 そこで、メシアがイエスかどうかが焦点になっている。 そして、37-39節では、「渇いている人はわたしのところに来て飲みなさい。」と日本語に訳されているが、イエスはこの時すでに、「わたしを飲みなさい」とさえ言っておられたと訳せると思う。 いつか私の友人の一人に、こんな方がいる。自分の子供たちがまだ幼いころ、家族の面前で自分の父親が自分の母親を銃でうち、しかも、父親自身も自殺したという方がいる。そんな状況から彼女がどう立ち直れたか、彼女は「私はイエスの血で救われた。」とはっきり言われる。人知を超えた、イエスというお方の恵みの業を覚える。

3月26日(日) ヨハネ 9:1-41
次週の日曜日も、福音書箇所が長い。 長いのには、それなりに理由があってそうなっているのだろう。 イエスが、目の見えなかった者を見えるようにする。 その出来事を通して、ユダヤ教社会で「イエスが神のもとから来た方かどうか」に関する分裂がおきてしまう。 何十年もまえのことだが、すべての宗教は、イエスを神(世の救い主)としているかどうかに分けられるのではないかと考えた。 いまそのことを思い起こして、黙想している。 この問題は長い時間が流れていくなかで、この世に生まれた人々が考え続けて、何世代、何十世代、何百世代もたって、社会が落ち着くのかと思う。

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