Archive for the ‘聖書観想’ Category

January 13th, 2018

今週の聖書観想

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Tweet 1月17日の聖書観想ここをクリックーー> 1月10日の聖書観想ここをクリックーー>2018 01 10 Reflection Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

January 6th, 2018

今週の聖書観想

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Tweet 2018年1月3日聖書観想ーーー>2018 01 03 Reflections 2017年12月27日聖書観想ーーー>2018 01 03 Reflections 2017 12 27 Reflections Revised Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

December 22nd, 2017

今週の聖書観想

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Tweet 2017年12月17日(日) ヨハネ1:6-8, 19-28 日本語の説教では、「私たちはヨハネと同じように、救い主でもなく、エリヤでもなく、預言者でもないのだから、ただ救い主・イエス・光を証しよう」と述べた。ヨハネがイザヤ書を引用して「私は荒れ野で叫ぶ声、主の道をまっすぐにせよ」と語っていたこととも現代の私たちに重なってくるように感じる。待降節、そして降誕節を迎える中で、現代は荒れ野にもたとえられそうだが、そこにゆたかなイエスの愛・主の光がゆたかに注がれることを感謝し喜んで証しよう! 2017年12月18日(月) エフェ6:10-17 パウロが強調していた神の武具を今一度かみしめたい。真理が帯、正義が胸当て、平和の福音を告げる準備が履物、信仰が盾、救いが兜、そして霊が剣。 2017年12月22日(金) サムエル下6:12-19 神の箱とは、契約の箱のことをいっているのだと思う。日本のおみこしとそっくりの形のもの。ここに出てくる光景は、日本の神社でおみこしをかついで「わっしょいわっしょい」といって踊っている姿とも重なってくる感じがする。最後に出てきた、輪形のパンはドーナツのようで、なつめやしと干しぶどうの菓子は、クリスマスによく食べる乾燥したフルーツだけでつくるフルーツケーキのようでもある。 2017年12月24日(日) ルカ1:26-38 おとぎ話のようでもある。しかし、そこには深い意味が神の思いによってこめられている。何十曲もアベ・マリアが作詞作曲されているという話を聞く。28節の「おめでとう、恵まれた方」が歌になっているのだろう。アべとはラテン語で、「喜べ」の意味。原語のギリシャ語聖書では「Chaire」カイレという言葉が使われており、歓呼の言葉でもある。 マリアは「結婚もしていない私に子供が生まれるなんて何事?なんで喜べるの。」と当惑する。普通に考えたらとても喜べない状況の中に、実は喜べること、福音はあるのだと感じる。 だれかが真理は矛盾に満ちているといっていた。たとえどんな社会状況が家庭事情があろうがメリークリスマス! 24日クリスマスイブは、朝8時半の礼拝、4時、6時、9時の4回の礼拝がありますが、それぞれに集まる方々に豊かな光が注がれ、新たな希望がわいてきますように! メリークリスマス!! 主の恵みと平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

November 11th, 2017

今週の聖書観想

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Tweet 2017年11月5日(日) マタイ 23:1-12 「先生と呼ばれてはならない、なぜならキリストのみが先生だから。」という話、私の学んだ大学では教授も「---君」という呼び方で公的な文書が発行されていたことを思い出す。別にキリスト教の大学ではないのだが、隠れたところでキリストの愛にあふれており、世間体は派手で学費が高いとか言われるが、実は地味で学費も候補だったほかの私立大学より安かった。謙虚さが重んじられた大学だったことを思い出す。キリスト教とはぜんぜんうたっていない教育機関でありながら、そこに主の存在が見え隠れしていたように思う。実は、すべての社会で、また自分ではキリスト教信者だとはいわない方に主の存在がはいりこみ、隠れた伝道者になっているようなことが多々あるように思っている。  2017年11月13日(月) 第一テサロニケ2:13-20 マタイ23章で、「あなたがたはみな兄弟なのだから」という話を読んだあと、この第一テサロニケを読んでいて、パウロがテサロニケの信者たちに「兄弟たち」(14節、17節)と呼びかけていることに、意味を感じる。 むかし笹川良一氏が日本船舶振興会の会長職の立場でコマーシャルに出ており「人類皆兄弟」という言葉を多くの子供たちとともに声を合わせて話していたように思う。その日本船舶振興会は、なんとローマカトリック教会の曽野綾子氏が笹川会長職を引き継いだことを思い出し、主の愛が船舶振興会にも入り込んでいることを覚える。 2017年11月10日(金) アモス書 3:1-12 10節には「彼らは正しくふるまうことを知らないと主は言われる。彼らは不法と乱暴を城郭に積み重ねている。」 とある。 後半部分、口語訳では「しえたげ取った物と奪い取った物とを、そのもろもろの宮殿にたくわえている。」と訳してあった。 私はアモス書というと、社会正義、特に世のリーダーの職にあるもののあり方を指摘しているように読めてくる。 日本のニュースでは企業の内部留保がとりあげられているが、神はアモス書を通して現代のリーダにも同じ指摘をしているように聞こえてくる。 2017年11月12日(日) マタイ福音書25:1-13 不幸な5人のおとめと、油をわけないけちな5人のおとめという話にとられてしまうかもしれないが、イエスのおっしゃりたいことはもちろんそういうことではないのだと思う。 油をわけらないことはなにを意味しているのだろう。 イエスの再臨に対する心構えつまり心構えそのものは、互いに心構えをしようと声をかけあうことができても、真剣に心構えをするかどうかは、ひとりひとりが決断して心構えをしなければならない。 心構えは分かち合えないのだ。 ひとりひとりがイエスの再臨を待つ心構えが、油を準備することにたとえられていると私は思う。 わたしたちをこの上なく愛してくださる神、イエスの再臨、イエスとの祝宴に備え、日々イエスとの交わりを大切に生きたい。日々御言葉と交わる、それが油をきらさずに準備することではないだろうか。 日曜、教会総会のため10時の礼拝のみで、第一礼拝も日本語礼拝もありませんが、良き主日礼拝になります。 そして意味のある教会総会が開かれますように! 主の恵みと平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

November 4th, 2017

今週の聖書観想

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Tweet 2017年10月29日 マタイ22章34-46 29日は宗教改革記念主日としての礼拝で、ヨハネ福音書8章が読まれたため、このマタイ22章のもっとも重要な掟の箇所は読まれなかった。しかし、「もっとも重要」と書かれているだけに、本当に重要な箇所だと思う。「神を愛し隣人を自分のように愛すること。」この言葉から、もちろん自分を愛することも重要ではあるが、現代は自分を最優先にするだけで、神や隣人をどこかにおいてしまいそうな世界的風潮をかもし出してきており、危険信号だと思っている。大前提には神が私たちを愛してくださっていることがあるのに、そのことをどこかにおいてしまい感謝が薄れてきているような気もしている。キリスト者として、神の愛を述べ伝えることの重要性をますます感じる。 2017年10月30日 ヤコブ2:8-13 「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きがくだされます。」やはり前提にあるのは、神のわたしたち一人ひとりへの憐れみ、愛が注がれていることがあって、このような言葉が書かれていると思う。この憐れみは、普段教会に行っているとか良い行いをしているから与えられるにではなく、残念ながらというかありがたいことに、神が我慢強く無条件にあたえ続けておられる。 2017年11月3日(金) エゼキエル書13:1-16 旧約聖書における一つの大きな課題は偽預言者の存在。神から預かる言葉を話すのではなく、自分の利益を求めるような言葉を話す偽預言者たちがいた。この旧約聖書箇所を読みながら、これは紀元前の話ばかりではなく現代にも警告を発していることを思う。 2017年11月5日(日) マタイによる福音書 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」キリスト教が浸透していない日本でも、私の感覚ではへりくだる文化が比較的浸透しているように思う。 しかし、この聖書箇所で学ぶことは、「真の先生・教師」は「父なる神・主なるイエス」だから、へりくだるようにと言われている。文化的に、良い人間関係を築くためにへりくだるのではなく、父なる神・主なるイエスから注がれているすべての恵みゆえに、へりくだることを覚えて生きたい。   5日の日曜日には日本語宣教29周年記念礼拝です。主の導きの中で全聖徒の日にあって豊かな日本語ミニストリーの礼拝となりますように!  主の恵みと平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

October 27th, 2017

今週の聖書観想

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Tweet 今週は月曜から木曜まで研修会で缶詰めみたいになっており、聖書観想をポストするのが金曜朝になっておりますが、Thank God It’s Friday!  わたしたちの罪のため、またまた主が十字架に架かられていることを覚えつつ。 10月22日(日) マタイ22:15-22 今年2017年10月はマルティンルターが95条の論題としてカトリック教会を批判した文書を1517年10月末に貼り付けたことが発端となり起こってしまった宗教改革から500周年。キリスト教会、とくにプロテスタント教会では大きなにぎわいを感じる。マルティンルター自身がカトリック教会の司祭であったので、教会として改めたいと考えたことが、カトリック教会幹部もルターの意見に賛同したものも、極端に考えてしまい、各地で戦争が起こってしまった事実があることも覚えておきたい。 実は、人々が極端な考えになりすぎて500年前と同じようなことになりかねない世界状況が今の世界にはただよっている。神のものは神に返すと、イエスが言われていることを、この時代にあってよーく考えたい。今ある世界の資源、富、自分たちの命、あるいは社会や政治すらも神の愛無しには存在しない。  10月23日(月) ヨハネの黙示録18:1-10, 19-20 ヨハネの黙示録というと世の終わりについて書かれていると解釈され、わたしたち人間は自分の死についてなかなか考えたがらないの同じように、世の終わりについての話も敬遠されがちだ。(世の終わりについて大きな興味を持っていつ来るかを予測する人々も後を絶たないが。) しかし、わたしは神学校時代にこのヨハネの黙示録を読み返していたときに、はっと気付かされたことがある。 「七転び八起き」のような希望にあふれるメッセージに感じてきて、今もそう思っている。今週与えられた18章だけではそれを感じるのは難しいかもしれないが、ちょっと19章を読んではいかがだろうか。またイエスキリストの死によって私たちの罪が毎週末に滅ぼされ、そして復活が毎週起こっていることとも重なってくるのではないだろうか。 10月27日(金) 申命記9:25-10:5  主が、再び石の板の上に十戒を刻む話。なぜ硬い石に十戒を刻むのか?それは大切な戒めであり、簡単に消えたり壊れないようにするためと考えていた。しかし、29日の福音書箇所のことも思い浮かべている中で、人々の心が頑なだから、石に書かれたのではと思えてきた。つまり石は人間の心を象徴しているような。もっとも大切な掟「主なる神を愛し、隣人を愛するように」と教えられても、頑なな私たちの心は、それを実現できない。そのような私たちのかたい心に、イエスにある信仰生活を生きるなかで、この大切な掟が刻まれて、イエスの御心が人間の心に宿っていくことを、この申命記箇所は暗示していたように思えてくる。 10月29日(日) マタイ22:33-46 十戒とイエスの話されたもっとも重要な二つ(一組)の掟とは、まったく別のものと思われてしまうかもしれない。十と二(あるいは一組)では数が異なるから。 しかし十戒(出エジプト20賞参照)の最初の三つはすべて「主なる神を愛する」ことに関係しており、四つ目以降はすべて「隣人を愛すること」に関係している。  恵み深き日曜の礼拝になることを、またトーランスで予定されている日韓ファミリーイベントについても、主の導きを祈りつつ。 主の平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

Tweet 10月15日(日) マタイ22:1-14 王が王子のために催す婚礼とは、聖書の結論ともいえる、愛なるイエスと全人類が結ばれる時を言っているように思える。 そして、毎週の礼拝はその結論である婚礼のときを先取りしているようだ。 礼拝には、実は私たちだれもが、神に背いてしまうあるいは神を疑う自分勝手な心をどこかにいだいてやってきている。 その自分勝手な心を、礼服を着ていない者にたとえられているようだ。 その自分勝手な心は、王である神によって、取り去られる。 10月16日(月) ユダ17-25 ユダの手紙は短い。少々背景を説明すると、1世紀から存在している主イエスを否定する、つまりイエスを神と認めないグノーシス派という人々に気をつけるようにという警告が手紙の目的といえるだろう。 現代プロテスタントには3万の宗派があるといわれる。その中には自分たちはキリスト教といいながらも、キリストの存在はただの教師としてしまい、神が肉を持って現れてくださった受肉の信仰を信じない、この世的な教えをする自称キリスト教指導者とか自称牧師が後を絶たないことを覚えておきたい。しかし、イエスの愛は、悪人にも善人にも注がれていることもしっかり覚えておきたい。  10月20日(金) 申命記 17:14-20 この箇所が教えていることが、どういうことなのかわかりにくいかもしれない。22日の福音書に書かれていることとのかねあいから読むと、中心的なメッセージが浮き彫りになってくるように思う。 政治的な地位である国王となる人も、神に帰属していることをちゃんとわかり、主なる神を畏れる人を選びなさいというメッセージに思えてくる。 10月22日(日)マタイ22:15-22 新共同訳聖書には、サブタイトルがついており、ありがたいと思うこともあるが、読むべきポイントがずれてしまう恐れがあることも感じる。「皇帝の税金」というサブタイトルだと、皇帝に税金を払うべきかどうかが、ポイントなのかと思ってしまうかもしれない。 しかし、ポイントは、イエスが、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と語られたところから、「神のもの、神に帰属するものは何か」と考える中で皇帝も含めて神に帰属することに気づき、神に返すということは、じゃあどうやって神にお返しするか、を考えることが大切なのかと思う。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

October 6th, 2017

今週の聖書観想

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Tweet 2017年10月1日(日) マタイ21:23-32 現在日本語礼拝で、私が聖書を拝読する際は新共同訳聖書というバージョンを読んでいる。新共同訳では兄は最初は「行かない」と言ったのに後から考え直してぶどう園に行き、弟は最初「行く」と答えたのに結局行かなかった、と書いてあった。ところが今週は口語訳聖書を読んでいて気がついたが、兄と弟の行動が逆に書かれている。これは訳を作成した際の、元となるギリシャ語の写本の違いによるもの。オリジナルの言語のギリシャ語の福音書と言っても、コピー機があったわけではなく、古代の人々が手書きで写していたため、変わってしまうことがあった。聖書には「一語一句、誤りはないのだ。」と言われる牧師がいる。そもそも私はそのようなタイプの牧師ではないが、聖書を読むときに、なんでもかんでも文字通りに解釈しないようにすることは一つ大切なことだと思う。   2017年10月3日(月) フィリピ1:3-14 フィリピの信徒への手紙は、獄中からパウロが書いた手紙。8節には「キリストイエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているか」という言葉がある。1日の夜、ラスベガスではアメリカ史上最悪と言われる銃撃事件が起こった。キリスト者として何ができるかを思いつつ、月曜以降、その現場にいた方々を覚えて祈る毎日を送っている。私たちの教会に来ていた方のお嬢さんが現場にいたという情報が入ったり、近隣教会の幼稚園の園長先生だった方のご主人は弾丸を腕に受けて貫通し、弾はさらにお腹に入ったが、手術を受けられ、命をとりとめたとのこと。犠牲となった方々・怪我をされた方々、その家族がたとえ遠くにいても、彼等が主イエスによって、癒され、慰められることを思うことで、聖霊なる神が働いてくださることを信じ・祈るのがキリスト者としてまずできる事。  2017年10月6日(金) エレミヤ2:23- 3:4 週の後半の旧約聖書はエレミヤ書が読まれる。エレミヤは難解で、子供には読ませてはいけないと言う方もいる。エレミヤ書に限らず、聖書を何の指導者もない状態で、ただ読み始めることは、危険な書物であることは否めない。姉妹教会の立野牧師は神学校時代に、本当に牧師になる道を歩み続けるか悩み、聖書を駅に備え付けの教育上よくない雑誌を入れる箱に捨ててしまった。その気持ちをわかる気がする。一つ、ヒントを書いておきたい。聖書で妻と夫の描写が出てきて、妻のほうが別の男といっしょになるなどいう話が出てきたりするが、妻とは男や女に限らず人類をあらわしていて、夫は神をあらわしている場合が多い。人類が本来の神を忘れて、お金とか名声を、あるいは何か自分の趣味を神と思ってしまいがちである。 そのようなことを男女関係にたとえている話だったりする。  2017年 10月8日(日) マタイ21:33-46 神が神の子イエスを人類の中に送っても人類はイエスを殺してしまうということを、神をぶどう園の主人に、イエスを主人の息子に、人類を農夫にたとえているといえるだろう。イエスの話はたとえ話とかあるいは寓話ともいっても良いと思っている。ただ、寓話というと、童話の一種類と解釈されてしまい、こども向けの話と思われてしまうかもしれないが、それでも良いのだろう。おとなでもこどもでも何歳であろうが、この世の人類は父なる神の子供たちとも言えるのだから。そしてこの聖書箇所のように、現代でも神に反抗する子供たちはたくさんいる。     8日の日曜はPastor Bradの説教で、いい話になります。日本語訳用意しますので、ぜひお越しください。  主の恵みと平安 安達均 Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

September 28th, 2017

今週の聖書観想

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Tweet 2017年9月24日(日) マタイ20:1-16 ぶどう園の労働者のたとえ、今一度読み返してなにを思われているだろうか?神からの報酬は、この世での働いた分だけの報酬とか、見合う賃金とかで与えられるのではない。天の経済とこの世の経済には大きな違いがある。わたしたちが捧げるときにも、世の経済と天の経済の違いをよく覚えておく必要がある。衣食住にさらに娯楽も含めて必要な経費を計算して、残った額を捧げるのが当然のように思われるかもしれないが、それはこの世的な経済。いただいた分のまず最初の10パーセントを捧げて、残りの90パーセントで生活し楽しもうと考えるのが天の経済。 2017年9月25日(月) ローマ16:17-20 ここ数ヶ月間はローマ書が読まれる日々が多かったが最後で16章に入った。ローマの人々への挨拶が中心で、実に多くの人の名前が出ている。しかし、25日に選ばれている17-20節は、パウロからローマの信徒へ注意をよびかけている。主に仕えないで、自分の腹に仕える人がいるという。教会といいながら、この世の経済を持ち込む人々がいるということを指しているようにも思える。しかし、「善にはさとく、悪にはうとくあってほしい。」ともパウロが言うのは実に慈しみ深い神をあらわしている。私は母からよく「だます人にはならないでだまされる人になりなさい。」と教えられた。 2017年9月29日(金) エゼキエル18:19-24 金曜、土曜の聖書日課とさらに聖日の第一日課で、エゼキエル書18章を全部カバーする。大きなポイントは1節にある「父たちが、酸いぶどうを食べたので子供たちの歯がうく」なんていうことはない。ひいては、18章の19節にある、「子は父の悪を負わない」ということかと思う。祖先が悪いことをしたから自分はこんな目にあっているとか、他人のせいにするのはやめなさいということのようだ。逆を言えば、神にあって、祖先が間違った行いをしていたとしても、将来を案じないようにとも思える。私自身、20世紀後半から生きたきた世代として、原発を使いはじめたり、さまざまな公害や自然破壊にしても、将来にたいへんな負債を残した世代だと反省する気持ちもあるが、将来の世代には大きな希望があるように思えてくる。21世紀を背負う世代が、20世紀の大人たちがとんでもないことをしたから、俺たちの将来は真っ暗だなどということになりませんように、偉大なる父なる神にざんげしつつ祈る。 2017年10月1日(日) マタイ21:23-32 ぶどう園に行って働くように。との父の勧告に、二人の息子のうち、兄は「行きません」と言ったが、考え直して行った。弟は「行きます」と言って行かなかった。 たとえ話だが、父は神、ぶどう園は、神が支配する御国。 神のよびかけを、たとえ最初は否定してしまっても、考え直して従うことの大切さを覚える。ポイントは「考え直す」ひいては、神のほうに向き直る、回心することの大切さだ。 エゼキエルの内容も、固定観念で「先代のなにか悪いことが子孫におよんでいる。」という考え方から脱却、考え直して、人間には考えにもおよばなかった恵みをもたらしてくださる神に注目するように教えられているように思えてきた。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace

September 21st, 2017

今週の聖書観想

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Tweet 9月17日(日)マタイ18:21-35 「だれだれさんのことを赦せない」ということがあると、だれだれさんのとった行動・言動を問題にしているつもりかもしれない。しかし、この聖書から「だれだれさん」のこと赦せない方の心の持ち方を、神様は問題にしているように感じる。 ヨハネ福音書の20章では、復活したイエスが、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言われている。 9月18日(月) ヘブライ 11:23-29 「信仰によって、」という言葉が繰り返されている。世界の情勢が揺れ動いている中、この言葉に意味を感じる。モーセが生まれたときに、両親は王の命令にしたがわなかったと、23節は伝えている。現代においては、米国大統領の命令が、違憲とされ施行されなかった例があるが、社会状況としては似たものを感じる。出エジプト記の一章には、エジプトの王がヘブライ人の助産婦に男児が生まれたら殺害せよ、との命令が出たが、助産婦たちは「神を畏れて」その命令には従わなかったとある。 現代でも、「信仰によって」「神を畏れて」決断行動することの大切さを覚える。  9月21日(木)ナホム1:1, 14 -2:2 紀元前7世紀頃、ナホムがニネベの陥落について預言している。アッシリアの首都が陥落してしまうのだ。1章14節の言葉だけでもじっくり読んでいると、なにか心につきささってきくるものがある。今、われわれが住んでいるアメリカにも、同じ預言がされているように思えてくる。そして、良い方向に変えられていくような希望も湧いてくるのは私だけだろうか。  9月24日(日)マタイ20:1-16 ぶどう園の労働者のたとえ。あとからくる者も、はじめからいた者と同じ権利があるということなのか。労働者たちで5時まで、だれにもやとわれずにいるものの気持ちを思う。とりのこされてしまうもの。 私はなにか、この世でいえば、ハンディを負っていて、なかなか効率よくは仕事ができないかたがたを覚える。自分も、五体満足ではあるが、効率が本当に悪いと思うことが多い。そこに、天の神から、この世に来られたイエスを通じて、憐れみが豊かに働いている。  Tweet This Post Buzz This Post Post to Facebook Post to Google Buzz Send Gmail Post to MySpace