March 31st, 2017

2017年3月26日 – 4月2日の聖書日課箇所から聖書観想

聖書観想, by admin1.

3月26日(日) ヨハネ 9:1-41
イエスが、目の見えなかった者を見えるようにする。この盲人が見えるようになったことより、見えるつもりでいた周りの者が実は、神の業を見えていなかった事が話しの焦点なのだと思う。また御業がおこってもそれを見て見ぬふりをしたともいえる。 実は現代の私たちにも同じことがいえるのかと思う。昨年から教区長になったBishop Andyはよく、「あなたは神の働きをどこに見ますか?」という質問をしている。    

3月28日コロサイ1:9-14
14節、「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」という言葉にホットするのは、私だけだろうか。 世の中でのさまざまな自分のいたらなさを覚えるが、立ち直れる原動力を十字架に架かられた御子が与えてくださる。

3月29日(水) マタイ9:27-34
今週も水曜の福音書箇所をとりあげたい。 ポイントはイエスにより、二人の盲人が見えるようになったり、口が利けないものがしゃべれるようになるということにあるのだろうか?多分そういうことではないのだと感じる。 イエスは盲人だった二人に、「このことは、だれにも知らせないように。」と助言している。つまり見えるようになったイエスの御業をほかの人に知らせたところで、神の業だと受け取れる人々が少ないこと。 また、しゃべれるようになった人にしても、ファリサイ派の人はイエスの業をメシアのものとしては受け取れない。イエスを救い主とだれでも受け入れられない現実は2000年間でも変わっていない。もっとも受け入れる事が出来る人の割合はずっと上がり続けていると思っているが。

4 月2日 ヨハネ11:1-45
またまた長い聖書箇所。イエスはが死亡後4日も経っているラザロを復活させるというセンセーショナルな事件だ。しかし、この長い物語にはラザロを復活させるイエスの神的な力と同程度に大切なポイントがもう一つあるのかと思う。それは二度も憤られ、涙も流されるイエスの人間性とか弱さを感じ取ること。

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