4月2(日) ヨハネ11:1-45
ラザロが死にイエスが彼を生き返らせる箇所を再度読みいかがだろうか。45節は長く、一語一句を読み通すのはたいへんだが。 ルカ10章に記述されていた、イエスや弟子たちへの給仕でごたごたするマルタとマリアの人間模様と共通するような描写がヨハネにもあるように感じる。マルタがなにかと機転を利かせて機敏に行動するようなタイプ。マリアはじっくり構えているが、いざ行動するとなると大胆な感じで影響力も大きいようなタイプ。どちらも大切な存在。
4月5日(水) マタイ22:23-33
来週の聖週間を前に「復活」について、サドカイ派(ファリサイ派と並ぶユダヤ教の指導者たちのグループだが、「復活」を否定していた)とイエスの問答を読み、意味を深めておきたい。 サドカイ派の質問からわかるのは、復活してこの世で普通にまた結婚生活をするような復活をイメージして、そんな復活なんて起こるわけないと思っていたようである。 それに対するイエスの対応で、「天使のようになるのだ」と答えていることは、しっかり心に留めておきたい。
4 月9日(日)マタイ26:14-27:66
新共同訳聖書で8ページにも亘る聖書箇所。実にいろいろなことが書いてある。 26章6-13節の「ベタニアで香油を注がれる」に書かれていることで気になることがあり、書き留めたい。「重い皮膚病の人シモンの家におられたとき」とある。一瞬、イエスの弟子のシモン(ペトロ)が皮膚病だったかと思ってしまうが、ベタニアにあった家なので、ペトロの家はガリラヤ地方なので、弟子のペトロとは異なる人物。それにしても、イエスが、思い皮膚病の人の家にも訪れており、またそこに弟子たちも、いっしょにいたことに、教会に仕える者の意義を覚える。そんななか一人の女(名前はないがヨハネの12章の記述からマルタの姉妹マリアと思われる)がイエスの頭に香油を注ぎかける。さすが、マリア! そしてイエスは「わたしを葬る準備をしてくれた。」
4月7日(金)ヨブ13:13-19
ヨブ記の前半は簡単に言うならば、大病をしているヨブに向かって、二人の友人が「大病をしたのは神の前で守るべきことをせず正しくなかったからだ。」というような因果応報的な議論で攻撃する。それに対して、ヨブが「いやいや自分は神の前で正しかった。」と反論している。与えられた箇所は、ヨブの反論の一部。この箇所をイエスの十字架刑を記念する聖金曜日の一週間前に読んでいることに意味を感じる。十字架刑にかかるイエスの心境とヨブの思いが重なってくるような面が。。。