4月23日(日) ヨハネ20:19-23
毎年、イースター当日の一週間後に読まれる福音書箇所はこの箇所。有名なトマスのところ。礼拝に来られる方々の人数は、クリスマス後の日曜と並んで年間で最低を競う日曜日なのだが、大勢の方がこの箇所を読む礼拝に来られないのは少々残念。今年は私は、トマスはなぜ最初にイエスが現れたときに他の弟子たちといっしょにいなかったのか気になっている。 イエスが十字架に架かって死に葬られ、弟子たちはすべてが終わったと思い、だんだんばらばらになって行く傾向があったのだろう。 たとえ日曜の朝にマグダラのマリアが復活したイエスに会ったと言っても、そんなことは男の弟子たちは信じられずにいた。 実は教会でもイースターを祝って人々は集まるが、翌週激減するのと関係があるように思う。イースターの16日当日の礼拝300名以上来られた。23日は120名程度。また教会に集う方々は女性が多いという現実。
4月25日(火) 第1コリント15:19-28
パウロが書いた手紙の一つ、第一コリントの15章の前半が、先週の金曜、今週月曜・火曜と与えらている。パウロはもともとは熱心なユダヤ教徒であり、イエスの復活した当時は、なんらそんなことは信じない生活をしていた。それどころかキリスト教徒を迫害する日々を送るようになる。あるとき、突然イエスに会う。まさに目からうろこ(使徒言行録9章18節)の体験。そのパウロがイエスの復活からおそらく25年以上たった時点で、今日の聖書箇所でコリントの教会の人々に、復活を力説している。それはイエスの復活を信じることは、どうしようもなくキリスト教を迫害したしていたパウロ自身の復活でもあり、私たちの復活でもある。どんな馬鹿なこと、はずかしいことをしていたとしても、主イエスの復活信仰により、死んでいた者の復活がある。アダムやイブも復活すれば、トランプだって、そして私も。
4月30日(日) ルカ24:13-35
イースターから二週間後に読む聖書箇所は、また復活日当日の明るいうちの出来事にさかのぼる。また場所はエルサレムからエマオに向かう道。 クレオパともう一人の弟子。 日本語で読んでいると、二人とも男の弟子のような感じがしてしまうが、二人の弟子というのはクレオパとその妻という解釈もできるのかもしれない。 いずれにしろ、二人の弟子は、イエスの死と葬りのあとは、他の弟子たちから離れていったのだろう。たとえ婦人たちが墓を見に行き遺体がなくなっていたという話を聴いてもまさか復活とは考えもしなかったのだろう。そしてエマオへと向かった。しかし、そこにいっしょに歩かれる復活のイエスがいた。ところが、復活したイエスだとは気がつかない。 しかし二人の弟子とイエスがいっしょに食事をするときに弟子たちの目が開き、ハットする瞬間が訪れる。 これも目からうろこともいってよいのかと思う。
4月27日(木) イザヤ25:1-5
週後半の旧約聖書はイザヤ書から25章と26章のごく短い箇所が与えられている。これらの言葉をじっくり読んでいかがだろうが。 とくに25章の1-5節だけでも良い。 とくにイエスが復活を知る時代に生きる民が、このような言葉がイエスの誕生の数百年前に与えられていたことを覚えたい。 イエスがエマオに向かっていた二人の弟子に、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれている」と説明したことをよく考えて、このイザヤ書を読むと目からうろこなのではないだろうか。
皆様方によき週末が与えられますように! 日本の皆様はゴールデンウィーク、主の存在に気づかれるということがおきますように!
恵みと平安
安達均