June 10th, 2017

聖書観想

聖書観想, by admin1.

6月4日(日) ヨハネ20:19-23
「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」の意味を考えたい。 イエスに教わった主の祈りにおける「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」との強い関連を感じる。主の祈りから考えられるのは、もし自分が赦さなければ、自分の罪も赦されずに残るともとれる。 なにはともわれ、イエスが慈しんで弟子たち(つまり私たち)の罪を赦してくださるように、わたしたちも赦すことの大切さを覚える。

6月6日(火) ローマ8:26-27
ローマ信徒への手紙8章には28節と38節の二つの有名な節がある。28節は、万事を益としてくださる。38節は、何事も私たちを神の愛から切り離せない。とくに28節の直前にある26-27節の言葉に、「霊の働き」の重要性を感じる。祈るにしても霊に任せて祈る。 つまり、自分で言葉にあらわさず、黙祷することの大切さを覚える。 話はちょっと変わるが、今年の教区のアッセンブリーでは、なにかの議決(投票)を行うまえに、だれかが代表して祈るのは止めることにした。 それは、その代表者の言葉が議決を誘導してしまう可能性だってあるからで、ただ30秒程度の黙祷の時間を持つことにした。 それは、まさに、霊の力にお任せする、そして、すべてを益としてくださる方にお任せするともいえる。

6月8日(木) ヨブ記28:1-11
ルーテル教会では聖霊降臨日の翌週の主日を三位一体主日としている。三位一体は説教で伝えるにはむずかしいものを感じる。福音、良き知らせ、の深みが三位一体にあるのかと思う。 その主日を前に与えられている旧約箇所は、木曜から土曜まで、ヨブ記が与えられている。すべて深みのある言葉に感じる。とくにヨブ28章1-11節の言葉から、私はマタイ福音書13章44節「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」という言葉を思い出した。 ヨブ記からも本当に価値のあるものの意味、すべての財産を超えるものであることを覚える。

6月11日(日) マタイ28:16-20
今年の三位一体主日に与えられている福音書箇所はマタイ28章のGreat Commissionとよく言われている箇所から。日本語では大宣教命令と訳される。 なぜ、これが三位一体主日に読まれるのか? 洗礼を授ける際に、「父と子と聖霊の名によって。」ということがあるからだろう。 三位一体という深くやや難しい話しは抜きに、ただイエスがこのようにおっしゃったから、そのまま言われた通りに洗礼を授けることの大切さを感じる。 また、「弟子にする」、「洗礼を授ける」、「教える」が順番で出てくる。これは必ずしも、しっかりとした弟子になることが最初であるということではないと思う。(もちろんこの考えには異なる方の牧師たちもおりそれはそれで尊敬したいと思うが。)父と子と聖霊のみ名において洗礼をさずかり、さらにイエスの語られたことを教えられるうちに、弟子になっていくと考えられる。 

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