July 22nd, 2017

今週の聖書観想(7月16日の週)

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以下、聖書観想になりますが、お配りしたカレンダー・聖書日課やウェブに載せた聖書日課・カレンダーでは、21日(金)の聖書箇所が間違って記載されていました。21日(金)は正しくは、イザヤ44:9-17とヘブラ6:13-20です。申し訳けありません。

2017年7月16 日 マタイ13:1-9, 18-23
「種を蒔く人」のたとえを今一度読んでいかがだろうか。あらためて読んでみて、私は、同じ福音の種、同じ聖書の御言葉であっても、実にさまざまな形で世の人々は御言葉をとらえる、つまり一時的に異常なまでの関心をもってしまう、あるいはほとんど関心を示さないという色々な現実がある事とおおいに関係のあるたとえ話であると思う。御言葉が、真に人の心に浸透して信仰的な成長を帯びていくには、単に文字を読む(あるいは聞く)という関係だけにとどまらず、神の働き、聖霊の後押しなしにはありえない。  

2017年7月17日(月) 第一テサロニケ4:1-8
テサロニケの信徒への手紙の一は、聖書に記載されたパウロの書簡の中でも、最初のもの、紀元後50年代はじめに書かれた。テサロニケの人々の信仰を喜びながらも、間違った教えが紛れこんでいることを心配しているような面はいなめない。そこで、与えられたような箇所にあるような、やや律法的というか、聖なるものにならないとだめですよ、みないな文面になっている。聖日の聖書、第二日課において、今年の聖霊降臨後の主日ではローマの信徒への手紙が読まれることが多い。 パウロの書いた書簡の中で、最後の書簡とも思われるローマ信徒への手紙と、最初に書かれた第一テサロニケとのパウロの書き方や内容の違いというか、深みの違い、読んだ後の余韻の差を覚える。 

2017年7月21日(金)、22日(土) イザヤ44:9-17, 18-20
偶像礼拝を問題としている預言者イザヤの言葉。キリスト教の歴史を振り返りながら、この箇所を読むとき、偶像とはなんなのかということを考えさせてくれると思う。 とくに今年宗教改革500年だが、500年前からさらにさかのぼること数百年、ローマ教会が歩んでしまった教えの中に、偶像礼拝に相当するものがあったのだろうと思う。そして、ローマ教会内では、「わたしの右の手にあるのは偽りではないか」とすら言わなかった(20節のイザヤの言葉)。しかし、ローマ教会の一司祭であった、マルティンルターは、神の導きにより「私たちが信じてきたものは偽りではないか」と気がつき、宗教改革、プロテスタントの運動が起こっていったともいえる。そして、時間はかかったが、ローマ教会も変わっていくように神が導いてきてくださったといえるのだろう。そして、皮肉なことに、現在三万ものプロテスタント教会の宗派が存在しているが、中には偶像礼拝に相当する教えがはびこってしまっていると感じている。

2017年7月23日(日) マタイ13:24-30, 36-43
良い麦と毒麦のたとえ。じっくり読んでいかがだろうか。先週のたとえも、今週のたとえも、拝読箇所の後半は、前半で語られたたとえ話の説明がされているが、後半の説明はあまり気にせずに、前半だけをしっかり読むのが良いように思っている。 私は前半で、僕たちが「毒麦を抜きましょうか?」と質問しているのに対し、「育つままにしておきなさい。」と主人が言われていることに感銘を受けてしまう。毒麦自身が、神の愛の中で、変わりうるということを暗示されているように思う。ローマ教会の歩みと重なるような気がする。また三万のプロテスタントの宗派にも、神の愛が働いていることを祈り覚えて。 そして私たち自身の、過ちや失敗をする生活に対しても。  

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