August 10th, 2017

今週の聖書観想

聖書観想, by admin1.

私たちを憐れんでくださるイエスの信仰が深まりますように。

2017年8月6日(日) マタイ14:13-33
イエスが幼馴染だった洗礼者ヨハネの悲しい知らせ(1-12節)を聞き、イエスが「ひとり人里を離れた所に退かれた」ことに、感慨深いものを感じている。 悲しいときに、イエスがひとりになり、神との関係、対話を求めていたのだと思える。しかしすぐに群集が後を追ってきて、大勢の人々を憐れみ5,000人の給食へと展開することになる。 その時間が短かかったにしろ、イエスが給食直前にひとりになる時間、神との関係を求めたイエスに見習うことがあるように思う。私たちの普段の生活に追われている中でも、神との対話を求めて生きるよう心がけたい。 

2017年8月8日(火) ローマ 1:8-15
まだローマまでは足を伸ばしたことがなかったパウロが純粋にローマ行きを希望し、祈っていたことが書かれている。地中海沿岸地域にあって、経済的にも政治的にもリードしていたローマへパウロが行きたかった理由は、福音を述べ伝えるため。そこには経済や政治の指導的な立場にあったローマ地域の人々でも、決して真の喜びや心の平安が満たされずにいたことを見抜いていたパウロの思いを覚える。 現代においても、政治や経済がリードしていると思われる地域に住んでいる方々に対しても主の憐れみが豊かに注がれていることを覚える。

2017年8月11日(金) 列王記上18:17-19, 30-40
週の後半は預言者エリヤについて書かれている旧約聖書箇所がとりあげられている。13日の聖日の福音書箇所はイエスが弟子たちをボードに残して一晩イエスが見えなくなってしまう箇所である。それと関連がある箇所として列王記19章9-18節が第一日課に選ばれている。そこには、エリヤが自分の無力さを体験するものの真の主に信頼することの強さを実感できたことが記述されている。 エリヤがいかにヤファエ信仰に厚いすぐれた預言者であったかを記述している箇所が今週後半の旧約聖書箇所ともいえる。 エリヤの生涯は簡単にいうと、バアル信仰(土地や家畜の生産力を支配する神でイスラエルの農耕社会に広まっていた)という異教との戦いだったともいえる。バアル信仰は、現代でいう自分の経済的豊かさだけを求めてしまう宗教というか偶像礼拝ともいうべきものとも密接に関連しているのかと思う。

2017年8月13日(日)  マタイ 14:22-33
5000人の給食の後、イエスは弟子たちを船に無理やり乗せて向こう岸に行かせ、さらに群集を解散させ、今回こそ一人で祈るために山に登られる。 その間に、弟子たちはたいへんなことになってしまう。24節から33節をじっくり読んで観想したい。とくにペテロの信仰のあさはかさが浮き彫りになってくるのかと思う。ほかの弟子たちのことはあまり描写されていないが、彼等も脅えていたことに変わりは無い。そして、わたしたちの信仰も、ここに描写されている弟子たちと似てはいないだろうか? 「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」といわれる主の御言葉をしっかり聴きたい。 

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