2017年8月13日(日) マタイ14:22-33
イエスからは「私だ、安心しなさい」と声をかけられていながら、ペトロがとった行動は、そのイエスに向かって、「もし本当にあなたなら」といって、さらにイエスである証拠を求めている。そのペトロの心の裏にあるものは、「疑い」という一言で言い表せるのかもしれない。しかし、もっとつきつめていくなら、ペトロが弟子たちのリーダとして、弟子たちがまだイエスだという確証をもてない気持ちを代表したのか、あるいは目立ちたいのか、いずれにしろ主なる神の御心にはそぐわない気持ちがペトロにあったことを、イエスは見抜いておられたように思う。そして沈んでいくペトロがあった。私には、なぜか世界の主要国といわれるリーダたちの多くが、このペトロと重なってきてしまい、そして、大国といわれている国も、みごとに沈んでいく様子が思い浮かんできてしょうがない。しかし、グットニュースは、そんな場合でも信仰により、主が手を伸ばしてくださること。
2017年8月14日(月) 第二ペトロ 2:4-10
上述したペトロは、イエスの死と復活後キリスト教の伝道に残りの生涯をささげた。ペトロの第二の手紙は、彼が殉教する直前の紀元後60年代に記したのではないかと思われる。与えられた聖書箇所では、旧約聖書に残された史実や、あるいはおとぎ話のような形で表現された教えから、神の裁きがとりあげられている。 読んでいて、あまり気持ちの良い箇所ではないかもしれない。10節の後半にある、「彼等は厚かましく、わがままで、栄光あるものたちをそしってはばかりません。」と書いているが、ここで「彼等」とはだれのことかと考えると、イエスに従って修行中だった30年前のペトロたちに重なってくるし、また、現代の世のリーダとも重なってきてしまうのは私だけだろうか。
2017年8月19日(土) イザヤ 56:1-5
20日の聖日の福音書では「カナンの女の信仰」として一人の異邦人女性の信仰と救いの話がとりあげられる。それに関連する箇所として、第一日課にはイザヤ56章の1節と6-8節が拝読され、さらにその前日の聖書日課箇所としてイザヤ56章の1-5節が読まれる。旧約聖書にも異邦人の救いが表わされている箇所があったことを覚えておきたい。また3-4節にある「宦官」という言葉は、使徒言行録の8章に出てくるエチオピアの宦官がイエスの信仰を持ち洗礼を受ける箇所を思い出させる。また5節の言葉は、カナンの女の信仰を思い出させないだろうか。
2017年8月20日(日) マタイ15:21-28
イエスが異邦人を犬にたとえており、ちょっと信じられないと思うような言葉が出てきている。それに対して「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」とここまでへりくだるカナンの女の信仰に力を感じる。イエスは態度を変えられた。弟子たちも時間はかかったが、考え方は変わり、いってみれば、ユダヤ教の宗教改革の一端を見る思いがする。 先週末は悲しい事件が、ヴァージニア州シャーロッツビルで起こったが、このようなことがいまだに起こる人間社会に、2000年前のカナンの女の信仰の話を通して、主なる神が問いかけてくださっているように思う。