9月3日(日) マタイ 16:21-28
この箇所を読むと、いつも「あなたの十字架を担ぐ」の意味について、毎回せまられる。とくに今回は、同じ日に与えられていたエレミア15:15の「わたしがあなたのゆえに辱めに耐えているのを知ってください。」との言葉にピンときて、イエスの言われていることも、そういうことなのかという気がしていた。キリスト教の神学は、この世の考え方とは異なり、徹底的に相手を愛し赦し続ける。この世的には、馬鹿正直で世間から恥さらしにされるような面があることはいなめない。イエスが十字架で担いでエルサレムを歩かされたのも、恥さらしにされたのだった。恥さらしにされようが、イエスの信仰を恥としない生き方が十字架を担いで歩むことではないだろうか。
9月4日(月) 黙示録3:1-6
黙示録の2章3章は、7つの教会に宛てた手紙。いにしえの教会宛ての手紙でも、現代の教会にもあてはまってくる面がある。与えられている箇所は、サルディスにある教会に宛てた手紙だが、「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。」とあるのは、十字架を担いで歩くなどということは何も考えずに、ソーシャルクラブ的に、自分たちだけで楽しむ、一見活発なような教会になっているような教会が問題にされているようである。司祭は白い衣を着て礼拝を司り、集う者が告解し、イエスの教えを思い出し、愛を実践する教会となれますように。
9月9日(土) エゼキエル 33:1-6
与えられている言葉を聴き、現代を鑑みる時、6節にあるような、「剣が望む」傾向を見ていないだろうか。日々のニュースで絶えない、北朝鮮のミサイルや核兵器問題も然り、また対応の仕方は異なるアメリカ、ロシア、中国、韓国の指導者たち。それをただ茶の間で見て、第三者的になって何も行動を起こさないのでは、エゼキエル書に書かれた「角笛を吹かない見張り」であり、また角笛を聴いてもそれを無視する民になってしまうのではないだろうか。
9月10日(日) マタイ18:15-20
この箇所だけを読んで解釈して、小さな集団である一教会においても、だれかに罪を犯した者とか、何かルールに従わない者がいた場合、まず一対一で話す。それでも悔い改めなければ、さらに数人で話す。それでもらちがあかなければ、教会全体で話す。それでも従わなければ、教会から追放するというルールが教会にできてしまったような面がある。しかし、そのようなプロセスは本当に神の御心なのだろうか。私の友人が牧師をしている教会の近くのいわゆる単一教会(Non Denominational Church)では、性的少数者が教会から追放されたあげく、自殺してしまったケースがある。その追放した教会はもちろんお葬式もしてあげない。友人牧師は、自殺した女性とその家族のために葬儀をとりおこなった。ある一教会に集まっている人々だけでは罪を犯しているのが、正反対だってありうるのだと思う。「自分たちが正しい」と思っていたことが全く逆の場合があることを、この聖書箇所が教えているようにも思えてくる。15節より前にどんなことが書いてあったか、また20節以降にどんなことが書いてあるのか、その脈略の中で読むと意味がわかってくるように思う。
10日のビーチサービスとビーチクリーニング、17日のメモリアルサービス、またさらなるハリケーンが近づいており、各方面で天災にあわれているかたがた、覚えて祈りつつ。
主の恵みと平安
安達均