9月17日(日)マタイ18:21-35
「だれだれさんのことを赦せない」ということがあると、だれだれさんのとった行動・言動を問題にしているつもりかもしれない。しかし、この聖書から「だれだれさん」のこと赦せない方の心の持ち方を、神様は問題にしているように感じる。 ヨハネ福音書の20章では、復活したイエスが、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言われている。
9月18日(月) ヘブライ 11:23-29
「信仰によって、」という言葉が繰り返されている。世界の情勢が揺れ動いている中、この言葉に意味を感じる。モーセが生まれたときに、両親は王の命令にしたがわなかったと、23節は伝えている。現代においては、米国大統領の命令が、違憲とされ施行されなかった例があるが、社会状況としては似たものを感じる。出エジプト記の一章には、エジプトの王がヘブライ人の助産婦に男児が生まれたら殺害せよ、との命令が出たが、助産婦たちは「神を畏れて」その命令には従わなかったとある。 現代でも、「信仰によって」「神を畏れて」決断行動することの大切さを覚える。
9月21日(木)ナホム1:1, 14 -2:2
紀元前7世紀頃、ナホムがニネベの陥落について預言している。アッシリアの首都が陥落してしまうのだ。1章14節の言葉だけでもじっくり読んでいると、なにか心につきささってきくるものがある。今、われわれが住んでいるアメリカにも、同じ預言がされているように思えてくる。そして、良い方向に変えられていくような希望も湧いてくるのは私だけだろうか。
9月24日(日)マタイ20:1-16
ぶどう園の労働者のたとえ。あとからくる者も、はじめからいた者と同じ権利があるということなのか。労働者たちで5時まで、だれにもやとわれずにいるものの気持ちを思う。とりのこされてしまうもの。 私はなにか、この世でいえば、ハンディを負っていて、なかなか効率よくは仕事ができないかたがたを覚える。自分も、五体満足ではあるが、効率が本当に悪いと思うことが多い。そこに、天の神から、この世に来られたイエスを通じて、憐れみが豊かに働いている。