2017年10月1日(日) マタイ21:23-32
現在日本語礼拝で、私が聖書を拝読する際は新共同訳聖書というバージョンを読んでいる。新共同訳では兄は最初は「行かない」と言ったのに後から考え直してぶどう園に行き、弟は最初「行く」と答えたのに結局行かなかった、と書いてあった。ところが今週は口語訳聖書を読んでいて気がついたが、兄と弟の行動が逆に書かれている。これは訳を作成した際の、元となるギリシャ語の写本の違いによるもの。オリジナルの言語のギリシャ語の福音書と言っても、コピー機があったわけではなく、古代の人々が手書きで写していたため、変わってしまうことがあった。聖書には「一語一句、誤りはないのだ。」と言われる牧師がいる。そもそも私はそのようなタイプの牧師ではないが、聖書を読むときに、なんでもかんでも文字通りに解釈しないようにすることは一つ大切なことだと思う。
2017年10月3日(月) フィリピ1:3-14
フィリピの信徒への手紙は、獄中からパウロが書いた手紙。8節には「キリストイエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているか」という言葉がある。1日の夜、ラスベガスではアメリカ史上最悪と言われる銃撃事件が起こった。キリスト者として何ができるかを思いつつ、月曜以降、その現場にいた方々を覚えて祈る毎日を送っている。私たちの教会に来ていた方のお嬢さんが現場にいたという情報が入ったり、近隣教会の幼稚園の園長先生だった方のご主人は弾丸を腕に受けて貫通し、弾はさらにお腹に入ったが、手術を受けられ、命をとりとめたとのこと。犠牲となった方々・怪我をされた方々、その家族がたとえ遠くにいても、彼等が主イエスによって、癒され、慰められることを思うことで、聖霊なる神が働いてくださることを信じ・祈るのがキリスト者としてまずできる事。
2017年10月6日(金) エレミヤ2:23- 3:4
週の後半の旧約聖書はエレミヤ書が読まれる。エレミヤは難解で、子供には読ませてはいけないと言う方もいる。エレミヤ書に限らず、聖書を何の指導者もない状態で、ただ読み始めることは、危険な書物であることは否めない。姉妹教会の立野牧師は神学校時代に、本当に牧師になる道を歩み続けるか悩み、聖書を駅に備え付けの教育上よくない雑誌を入れる箱に捨ててしまった。その気持ちをわかる気がする。一つ、ヒントを書いておきたい。聖書で妻と夫の描写が出てきて、妻のほうが別の男といっしょになるなどいう話が出てきたりするが、妻とは男や女に限らず人類をあらわしていて、夫は神をあらわしている場合が多い。人類が本来の神を忘れて、お金とか名声を、あるいは何か自分の趣味を神と思ってしまいがちである。 そのようなことを男女関係にたとえている話だったりする。
2017年 10月8日(日) マタイ21:33-46
神が神の子イエスを人類の中に送っても人類はイエスを殺してしまうということを、神をぶどう園の主人に、イエスを主人の息子に、人類を農夫にたとえているといえるだろう。イエスの話はたとえ話とかあるいは寓話ともいっても良いと思っている。ただ、寓話というと、童話の一種類と解釈されてしまい、こども向けの話と思われてしまうかもしれないが、それでも良いのだろう。おとなでもこどもでも何歳であろうが、この世の人類は父なる神の子供たちとも言えるのだから。そしてこの聖書箇所のように、現代でも神に反抗する子供たちはたくさんいる。
8日の日曜はPastor Bradの説教で、いい話になります。日本語訳用意しますので、ぜひお越しください。
主の恵みと平安
安達均