10月15日(日) マタイ22:1-14
王が王子のために催す婚礼とは、聖書の結論ともいえる、愛なるイエスと全人類が結ばれる時を言っているように思える。 そして、毎週の礼拝はその結論である婚礼のときを先取りしているようだ。 礼拝には、実は私たちだれもが、神に背いてしまうあるいは神を疑う自分勝手な心をどこかにいだいてやってきている。 その自分勝手な心を、礼服を着ていない者にたとえられているようだ。 その自分勝手な心は、王である神によって、取り去られる。
10月16日(月) ユダ17-25
ユダの手紙は短い。少々背景を説明すると、1世紀から存在している主イエスを否定する、つまりイエスを神と認めないグノーシス派という人々に気をつけるようにという警告が手紙の目的といえるだろう。 現代プロテスタントには3万の宗派があるといわれる。その中には自分たちはキリスト教といいながらも、キリストの存在はただの教師としてしまい、神が肉を持って現れてくださった受肉の信仰を信じない、この世的な教えをする自称キリスト教指導者とか自称牧師が後を絶たないことを覚えておきたい。しかし、イエスの愛は、悪人にも善人にも注がれていることもしっかり覚えておきたい。
10月20日(金) 申命記 17:14-20
この箇所が教えていることが、どういうことなのかわかりにくいかもしれない。22日の福音書に書かれていることとのかねあいから読むと、中心的なメッセージが浮き彫りになってくるように思う。 政治的な地位である国王となる人も、神に帰属していることをちゃんとわかり、主なる神を畏れる人を選びなさいというメッセージに思えてくる。
10月22日(日)マタイ22:15-22
新共同訳聖書には、サブタイトルがついており、ありがたいと思うこともあるが、読むべきポイントがずれてしまう恐れがあることも感じる。「皇帝の税金」というサブタイトルだと、皇帝に税金を払うべきかどうかが、ポイントなのかと思ってしまうかもしれない。 しかし、ポイントは、イエスが、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と語られたところから、「神のもの、神に帰属するものは何か」と考える中で皇帝も含めて神に帰属することに気づき、神に返すということは、じゃあどうやって神にお返しするか、を考えることが大切なのかと思う。