今週は月曜から木曜まで研修会で缶詰めみたいになっており、聖書観想をポストするのが金曜朝になっておりますが、Thank God It’s Friday! わたしたちの罪のため、またまた主が十字架に架かられていることを覚えつつ。
10月22日(日) マタイ22:15-22
今年2017年10月はマルティンルターが95条の論題としてカトリック教会を批判した文書を1517年10月末に貼り付けたことが発端となり起こってしまった宗教改革から500周年。キリスト教会、とくにプロテスタント教会では大きなにぎわいを感じる。マルティンルター自身がカトリック教会の司祭であったので、教会として改めたいと考えたことが、カトリック教会幹部もルターの意見に賛同したものも、極端に考えてしまい、各地で戦争が起こってしまった事実があることも覚えておきたい。 実は、人々が極端な考えになりすぎて500年前と同じようなことになりかねない世界状況が今の世界にはただよっている。神のものは神に返すと、イエスが言われていることを、この時代にあってよーく考えたい。今ある世界の資源、富、自分たちの命、あるいは社会や政治すらも神の愛無しには存在しない。
10月23日(月) ヨハネの黙示録18:1-10, 19-20
ヨハネの黙示録というと世の終わりについて書かれていると解釈され、わたしたち人間は自分の死についてなかなか考えたがらないの同じように、世の終わりについての話も敬遠されがちだ。(世の終わりについて大きな興味を持っていつ来るかを予測する人々も後を絶たないが。) しかし、わたしは神学校時代にこのヨハネの黙示録を読み返していたときに、はっと気付かされたことがある。 「七転び八起き」のような希望にあふれるメッセージに感じてきて、今もそう思っている。今週与えられた18章だけではそれを感じるのは難しいかもしれないが、ちょっと19章を読んではいかがだろうか。またイエスキリストの死によって私たちの罪が毎週末に滅ぼされ、そして復活が毎週起こっていることとも重なってくるのではないだろうか。
10月27日(金) 申命記9:25-10:5
主が、再び石の板の上に十戒を刻む話。なぜ硬い石に十戒を刻むのか?それは大切な戒めであり、簡単に消えたり壊れないようにするためと考えていた。しかし、29日の福音書箇所のことも思い浮かべている中で、人々の心が頑なだから、石に書かれたのではと思えてきた。つまり石は人間の心を象徴しているような。もっとも大切な掟「主なる神を愛し、隣人を愛するように」と教えられても、頑なな私たちの心は、それを実現できない。そのような私たちのかたい心に、イエスにある信仰生活を生きるなかで、この大切な掟が刻まれて、イエスの御心が人間の心に宿っていくことを、この申命記箇所は暗示していたように思えてくる。
10月29日(日) マタイ22:33-46
十戒とイエスの話されたもっとも重要な二つ(一組)の掟とは、まったく別のものと思われてしまうかもしれない。十と二(あるいは一組)では数が異なるから。 しかし十戒(出エジプト20賞参照)の最初の三つはすべて「主なる神を愛する」ことに関係しており、四つ目以降はすべて「隣人を愛すること」に関係している。
恵み深き日曜の礼拝になることを、またトーランスで予定されている日韓ファミリーイベントについても、主の導きを祈りつつ。
主の平安
安達均