August 7th, 2011

2011年8月7日聖霊降臨後第8主日聖餐礼拝説教「恐怖、勇気、信仰」”Fear,Courage and Faith”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

マタイによる福音書14章22-33節                                                           

「恐怖、勇気、信仰」 “Fear, Courage and Faith”

私たちの父である主イエス・キリストから恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。

皆さんに質問があります。神様は私たちのように疲れること、心が痛むこと、悲しみに沈むことがあるんでしょうか? 神様は全能な方、神様にできないことはない。しかし神様が神様であり、同時に人間であるならば、人間の持つ不安も、希望も、心の複雑さを感じていたはずです。イエス様は父なる神に話しかけることを祈りという形でよくなさったのです。

私たちは神様の姿、神様の御心、神様のすべてがわかるものではありませんが、イエス様として私たちの生活の中で私たちにかかわってくださってくれているのです。小さい時に習った子供の讃美歌に「主われを愛す」というものがあります。簡単な讃美歌で、何回か歌っているうちにもう忘れることもない人生を支える信仰告白の歌となります。

「主われを愛す」を一緒に歌ってみてください。「主われを愛す、主は強ければ、我弱くとも、恐れはあらじ、わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、我を愛す」

この歌、讃美歌は、私を不安から守ってくれた歌でもあります。何か怖いことがあった時、夜、停電で、真っ暗になった時、お母さんに叱られた時、何かこの歌が心の中に出てきたのです。

さて、皆さんは怖い時を何度も経験されてきたと思いますが、暗いと言うのは、どうして怖いのでしょう。日本のお墓は昼間はどうっていうことはありませんが、夜にそこへ行くのは大人の私にとっても何か怖いのです。お化けが出る、火の玉が飛んでくる。いまだに遊園地で秋に行われるお化け屋敷は、お金を払ってまで行きたいとは思いません。

もう20年前になりますが、Ghost と言うな映画がHollywoodで大ヒットしたのを覚えていますか?Whoopie  Goldberg が占い師、Patrick Swayze が悪いゴーストをやっけて、いいゴーストとして出てきたこの映画は、お化けのイメージを正義の味方とした私の好きな映画です。

今日の福音書はイエス様の弟子たちがガリラヤ湖で夜、嵐の中でイエス様に出会った話です。すごい嵐で沈没しそうな船にイエス様の弟子たちが乗っていたのです。その暗闇の中にイエス様が海の上を歩いてきたのを見たのです。イエス様がGhostに見えたのですが、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」とイエス様は弟子たちに告げたのです。ペテロは自分の信仰をほかの弟子たちに見てもらいたいばかりに言いました。「主よ、あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエス様の「来なさい」と言葉を受けて水の上をイエス様に向かって歩き始めたペテロは強い風に気がついて怖くなり、その途端沈みかけたのです。イエス様はすぐに「助けてください」と叫んだペテロに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」と言われたのです。ペテロが目をイエス様に向けて歩いていたときは水の上を歩けたのですが、イエス様から目を離して荒波を見た時、恐怖に駆られたのです。

しかしこれはペテロの経験だけではありません。私たち、一人ひとりも不安を感じる時がたくさんあります。そんな時、神様にしがみつく時,私たちが心のそこから「神様お願いです、私を助けてください、あなたは私を助けてくださる力がありますと信じるとき、そこにイエス様がいて私に生きる力を与えてくださっていると感じる時,勇気がわきます。その勇気はそして神様への信仰と変わるのです。

私たちは人生で荒波に出会ったことのない人は一人もいません。私の不安の心は海で嵐に飲み込まれこみそうになっていたことがありました。今まで働いていたところから解雇届けを受けた。健康保険もなくなった。それが原因でか、憂鬱症に落ちいった。だれからも、リジェクトされたような気分になって、人と付き合う気分にもなれない。これは誰かのことではなく、私が何年か前に自分で経験したことです。家内とも口げんかするようになった。丁度そんな時、日本から電話で両親が自分たちで生活することが難しくなったと毎日2時間両親の面倒を見てくれていたヘルパーさんから、また教会の友達から、どうか日本に帰ってきて、ご両親の面倒を見てくれるところを探してあげてください、あなたの両親はもうお二人とも痴呆症で二人だけでの生活は無理ですからとの電話もあったのです。

ちょうど、次の牧師の仕事を探していた時ですから、しばらく日本に帰って両親が一緒に住めるグループ・ホームを探し、そこに入ってもらったのです。そこは秩父の山の麓で、温泉があるところでしたから、両親は休暇でそこに来たのだと思ったことでしょう。両親にさよならをしてのホームを出たとき、後髪を引かれるような思いで悲しみにふさいだことを思い出します。

ある意味で、荒れたガリラヤ湖の弟子たちの経験は私たち自身の個人的な危機の時なのです。私たちの不安は小さい船の中で嵐に会った、何もコントロールができず、どうしていいのかわからない。そこで何か自分より大きな力のある人、それは私たちにとって神様ですが、その神様に自分のすべてを委ねるのです。  “Jesus help me for my weak faith”.

何年か前にpsychology today という 雑誌の中で次のような統計を読んだことがあります。40%の私たちの不安と心配事は実際起こることではない。30%の不安は私たちが過去に行ったことによるもので今それにくよくよすることはない。12%の不安はある人の気持ちやフィーリングを間違えて受け取ったことによるもの。10%の不安は個人的な健康に対しての不安で、心配すればするほど悪くなる。しかし私たちの一番の不安は私たちのいつか経験する自分の死についてです。

ペテロはイエス様を信じてガリラヤ湖を歩き出したとき、それが出来ました。不安に駆られたからこそ水の底に落ちる経験をしたのです。しかし私たちもペテロと同じく溺れかかったその時、イエス様から差し出される手にしがみつくことができるのです。

イエス様は、死の暗闇を経験したことで、私たちを不安の暗闇から光のところに引き上げてくださることができるのです。イエス様が暗闇の死から復活された、その神様の救いの力で、私たちを陰府の世界から光の世界へと連れて行ってくださるのです。

この水の上を歩くイエス様は人間の不安、死ぬということの恐ろしさも足で踏みつぶし、その代わり、私たちに生きる勇気と信仰を与えてくださっているのです。人生の嵐の中で“Take heart, it is I, have no fear.” 「しっかりするのだ、私である。恐れることはない」と言われたのです。

マタイの福音書には何回にも亘ってイエス様が弟子たちに、「信仰の薄い者よ」と語っている記事に出会います。マタイはそれを「疑う者」とも呼んでいます。マタイにとって教会とは信仰の薄い、疑い者の集まりですが、この小さな集まりも、みんながイエス様に目を向ける時、何か素晴らしいことができるのです。

ペンシルベニアの小麦畑で働くお百姓さんがある年にすばらしい小麦の収穫の時を迎えました。さて明日トラクターで収穫するぞと言っているさなか, ものすごい嵐、それて大きい雹が一時間に渡って降り続けたのです。小麦は全滅です。嵐の後、まだ小さかった息子さんは荒野になった畑を見つめて泣き始めました。お父さんも悲しいだろう、なんか神様に抗議するようなことを言うんではないかと思っていたその時、お父さん、小さい声で“Rock of Ages”と言う讃美歌を歌いだしたのです。”Rock of Ages, cleft to me, let me hide myself in thee.”日本語でこの讃美歌はこう歌われています。「岩なるイエスよ、守りたまえや、脇よりながる、とうとき血にてわが罪とがを洗い清めよ。」

私の両親は第二次世界大戦の終わる寸前アメリカ空軍の飛行機から落とされた焼夷弾で家を失くしました。命は救われたものの家は全焼、自分たちの思い出の写真もすべて灰となってしまったのです。それは悲しいことです。思い出を奪われてしまう、自分の若い時の写真が一枚もない、悲しいけれど、今ここに私がある、私はまだ神様から見放されてはいないと心に感じたとき、神様の愛を泣きながら感謝したと私の両親はいつも語っていました。イエス様を主と受け取った私たちは、人生の大きな荒波を乗り越える勇気を神様からいただいているのです。

神様、イエス様が私の心の中をすっかり分っていてくださる、慰めの言葉を語ってくださっている。そこで勇気が湧いてきます。希望が生まれます。神様が私と共にいてくださると信じる信仰は人生の中で掛け替えのない宝物です。日曜日に一緒に神様を賛美し、神様に感謝をし、私たちの仲間をお互いに支え合って生きる人生を与えられている私たちは幸福です。アーメン。

Back Top

Comments are closed.