April 2nd, 2011

2011年3月6日変容主日聖餐礼拝説教「山上での経験」”Mountain Top Experience”岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

マタイによる福音書17章1-9節

「山上での経験」  “Mountain Top Experience”

 私たちの父なる神と主イエス・キリストより恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。 

今日は来週で終る顕現節から、来週から始まる受難節の間に来る変容主日です。イエス様が弟子のぺテロ、ヤコブ、そしてヨハネを連れて山に登り、そこでイエス様の顔が太陽のように輝き、服は光りのように白くなった。叉、イエス様は旧約聖書の時代のユダヤ人のリーダーのモーセ、偉大な預言者エリアとともに語り合ったという記事です。

ところで変容という言葉、私たちは日常の生活の中であまり聞かない言葉ですが、それは何を意味しているのでしょうか?この言葉を聞いて私の思うのは昆虫の幼虫が在る時さなぎになり、それがしばらくすると蝶と変身していくことです。蛙の卵がおたまじゃくしになり、おたまじゃくしの尻尾がなくなって今度は蛙になるのです。

息子のAndrewが小学校のころ彼の一番好きなおもちゃはTransformer というもので、それは外見トラックなのですが、それをいじくっているうちにロボットに変わってしまうのです。そう言えば、昔白黒のテレビで見たDaily Planet という新聞記者のクラーク・ケントも事件のあるたびに、正義の味方のスーパー・マンに変身した男でした。

マタイの福音書の中で言われているイエス様の変容、Transfiguration とは、いったい何を示すのでしょうか? 旧約聖書の中で、今日のイエス様の変容とよく似た話があります。それはモーセがシナイ山に登った話。その山頂で神様はモーセに10の戒め、つまり10戒を与えた話しを皆さん覚えているでしょう。

このモーセの話によると、モーセがシナイ山に登る前の6日間雲によって囲まれたとあります。イエス様の変容の記事も6日の後というこの6日と言う言葉に第一の共通点があります。モーセもイエス様も山に登ったのです。聖書には山に登るということが神秘的な意味を持っていて山頂で神様の声を聞いた、神様の聖霊を受けたと言うことが沢山書かれています。

私の知っている一人の韓国人の牧師さんはアメリカの教会で按手礼をうけた後、韓国に10日戻り、その内の殆どを山にこもって祈り続けて彼は神様との会話の時を持ったのです。ただし、そこは同じように山にこもって祈りをしていた牧師さん達でいっぱいだったとも聞きました。これは韓国人の牧師さんには人生の中で一回はしなければならない修行だそうです。

私は富士山に高校生の時一回、そして叉10年ほど前、息子のアンドリュウを連れて登りました。山の8合目で一泊して朝の3時、まだ暗いうちにおきて、フラッシュ・ライトを照らして山頂まで日の出になる前に寒さに震えながら登ったのです。山頂の鳥居の所で、雲の下から出てきたまぶしいほどのご来光を息子と一緒に経験しました。そこで神様の作られた自然の神秘さを心を中に感じました。

アポロ宇宙船に乗って地球を遠く月から見ることのできた宇宙飛行士の多くも、山上とは言わないまでも、神様の作られた素晴らしい地球を見て神様の霊に触れたとも聞いています。人間はこのように神様、あるいは神様の創造された偉大な何かを見ることで心を動かされるのではないでしょうか?

さて、元に戻ってイエス様が3人の弟子を連れて山に登った記事とモーセがシナイ山に登った話に戻ります。確かにイエス様は弟子の、ペテロ、ヤコブ、そしてヨハネを連れて山に登りました。モーセもアロン、ナダブ、アビフをつれてシナイ山に登りました。モーセはこの山で神様と出会った時から顔が光り輝き、山を降りた時、恐れうろたえた人々のためにベールを顔にかぶったと聖書に書いてあります。

同じように今日のマタイによる福音書の記事にペトロ、ヤコブ、ヨハネは山上でイエス様と一緒にいた時、イエス様の顔が太陽の光りのようになり、着ていたものが真っ白に輝いたと書いています。

ユダヤ人は子どもの時からこのモーセのシナイ山の経験を会堂でのラビの説教の中で何回も、何回も聞いていたはずです。イエスに従ってきた人たちの多くも始めはユダヤ人でしたから、山上でイエス様の顔が太陽のように光り輝いたと聞いたときイエス様の経験をとモーセの経験がなんとなく同じようなものと思ったに違いありません。然しこの二人の顔が輝いた、そこに少し違う輝きさがあるのです。

モーセは神様と共にいることで神様の光りを吸収して光ったのに比べ、イエス様が光り輝いたのはイエス様が神様の栄光を自分のうちにすでに持っていたからです。つまりイエス様は父である神様と一体なのです。イエス様は神様からおくられた者、いやそれ以上にイエス様こそ私たちの救い主であることをこの出来事をこの光り輝くイエス様の姿、叉そこに、旧約聖書のヒーローとも呼ばれるモーセと偉大なるエリヤと呼ばれた預言者と共に現れたことで、イエス様こそ本当の救い主ですとこの福音書を書いたマタイは宣言しているのです。

このように神様自身が私たちの日常の生活の中に現れる、そこに神様の霊を感じるということは多くの人が経験しています。神様の霊を心の中に感じたそのとき神様はここで私達と共に生きている、それ以上に私たち一人ひとりに神様のみ心にかなうことができるよう力と精神を与えてくれるのです。

私たち、日本語の教会は礼拝出席は25人ほど、数からしたら小さい群れです。然し、私たちは、ここに集う一人ひとりを主にあっての兄弟、姉妹として大切に接していく仲間です。そこに今日の変容とは言わないまでも、英語で言うTransfigulation と言う心の動きを私たちは人生の中で感じているのです。

その一つの例は3月2日に神様の元に帰られた静子Genewichさん、 私がここに来るようになって一年半がたちますが、小栗さん、Susie Bacon さん、淀川さん、中内さん, Mark Porterさんと先に此の世から神様の元に戻った信仰の先輩を覚える時、悲しくなるのは人間として当たり前のことですが、それ以上に私たちも心の中で何時かは、私たち一人ひとりも神様の所に帰っていくのだと言う希望を育てているのです。

人生のうち起こる疑問、悲しみからイエス・キリストを信じる信仰によって、いや、イエス様自身が私たちに下さった信仰によって私たちはTransform, Transfigure されつつあるのです。

ですから、信仰を持っている人は幸福です。神様が人生のどんな時でも一緒にいてくださるこことを知っているからです。祈りましょう。

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