April 2nd, 2011

2011年3月20日四旬節第2主日聖餐礼拝「ヨハネ3:16」“John 3:16””岸野豊牧師

牧師説教, by admin1.

四旬節第2主日聖餐礼拝「ヨハネ3:16」“John 3:16””岸野豊牧師

 私たちの父なる神と主イエス・キリストより恵みと平安があなた方の上にあるように。アーメン。

今日の福音書はイエス様に好感を持っていたファリサイ派の1人であるニコデモと言う人のイエス様との会話です。」イエス様は言いました。「よくよくあなたに言っておく。誰でも新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」。ニコデモは答えました。「人は年を取ってから生まれることが、どうしてできますか。もう一度、母親の胎内に生まれることが、どうしてできましょうか?」

会話の内容は、神の国に入るためには、人はどのように再び生まれることができるか」との問答です。洗礼とは私たち一人ひとりが自分の罪を悔い改め、信仰によってイエス様を救い主と告白する儀式です。私は教会の礼拝によく出てこられるようになった方に、「あなたはもう洗礼を受けませんか」と声をかけています。そこでよく聞くのは、「私はまだ聖書のことも神様の教えについてもう少し勉強して分かるようになったら」と言う言葉を聞きます。

私たちの教会では赤ちゃんにも、まだ幼い子どもにも、これらの子どもたちが自分で神様を主と認めることができない前に、洗礼を授けることができるのです。人が洗礼を受けるとは神様からの聖霊の賜物を受けることです。神様の子どもとなることです。

これはこの教会で何人かの人から聞いたことですが、藤田エスターさんのご主人, メソジスト教会の牧師であったJonathan藤田先生は教会に来られるようになった方々に、早いうちに洗礼を受けるように進めたと聞いています。私も藤田先生と同じように考えます。神様への信仰を持つと言うことは神様の全てがわかるようになったからではなく、まだ色々なことが分からなくても神様が、神様に従ってくる人々に時が経つにつれて信じる心ををくださるのです。

同じように私は教会で行なう聖餐式でもまだ洗礼を受けていない人も、イエス様の体と血である聖餐はそこにイエス様、神様がいるということを心の中で受け入れることができる人には、是非受け取っていただきたい神様の賜物です。信仰生活のはじめからキリスト教とはなにか、全てがわかる人はいません。信仰は自分の努力だけでは大きくなりません。信仰、信じる心は、まず神様に自分の心を開き「神様、私の心の中にあなたが入って来てください」と祈ることによって始まるのです。

さて今日のメッセージはヨハネの福音書3章14から15節に書いてある「モーセが荒れ野で蛇を上げたように人の子も上げられねばならない。それは、信じる者がみな、人の子によって永遠の命を得るためである」という文章について考えてみたいと思います。

モーセは神様に従って、エジプトで奴隷として暮らしてきたユダヤ人を解放してイスラエルの地につれもどした旧約聖書の英雄でしたがユダヤの民がエジプトを出てイスラエルに戻るまで40年間砂漠の中を彷徨ったのです。大勢のユダヤ人はモーセに言いました。「何故、私たちをエジプトからこの荒野に導いたのは私たちをここで死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物では、気力もうせてしまいます」。そこで主は、火の蛇を民のうちに送られた。蛇は民を噛んだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。

皆さんから、何故神様はそんな無残なことをするのでしょうと質問が出て当然と思います。然し神様はユダヤ人たちに辛い時にも、悲しい時にも、どんな時も、神様を信じなさいと教えているのです。

 さてここで今日の福音書の箇所は、旧約聖書の民数紀21章の蛇の話し、それは、蛇に噛まれた、死にかかっている人に対しての言葉です。

それを読んでみましょう。そこで主はモーセに言われた、「火の蛇を造って、それをさおの先上に掛けなさい。全ての噛まれた者が仰いで、それを見るならば、生きるであろう」。モーセは青銅で一つの蛇を造り、それをさおの上に掛けて置いた。蛇が人を間でも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。

この聖書の箇所を今こういう物を持って紹介しましょう。(竹竿と蛇の絵を見せる)火の蛇をさおの先に掛けましょう。さおに二匹の蛇が上りました。それを絵で書くとこういったものになります。さて皆さんの中に、何かこの蛇が竿に絡まっている、そんな絵をどこかで見たことがあると言われる方いると思います。

これはお医者さん、叉医学のシンボルです。まさに「火の蛇を造って、それをさおの先上に掛けなさい、全ての蛇に噛まれたものが仰いで、それを見るならば、生きるであろう」の聖書の言葉が今日の医学のシンボルになっているのです。

ちょうどモーセ荒野で蛇を掲げたように、人の子も、(それはイエス様のこと) 叉上げられなければならない。上げられなければならないとは、イエス様が十字架に架かると言うことです。イエス様が十字架に架かり、私たちの罪のために死んでくださった。 しかし、イエス様は十字架の上で、息を引き取ったその三日後に甦ったのです。そして、イエス様は、その甦りの命を、永遠の命を私たちに約束してくださったいるのです。

もう一度言います。私達の救いは、私達の罪を背負って十字架と言う木にかかって私達を贖う為に死んでくださったイエス様によって達成されたのです。

キリスト教の信仰を一番簡潔に力強く語っているのは今日読んだヨハネによる福音書3章16節です。これをも一度皆さんと一緒に大きな声で、ゆっくりと読んで見ましょう。新約聖書の167ページ下の段の16節です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである

私達の多くはこの聖句を口語訳で暗唱できる方も多いと思いますのでもう一度口語訳の言葉で呼んでみましょう。「神は、その独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者が独りも滅びないで、永遠の命を得るためである。」この言葉はクリスチャンの中では一番知られている、一番唱えられている聖句です。

話は変わりますが、私たちはこの九日間東北地方を襲った災害のすさまじい姿を見て悲しい思いでいっぱいです。震度9.0、考えられない地震です。それでも日本人の心の中には誰でも、何時か大きな地震がどこかで叉来るに違いないという思いはあったはずです。

あのすごい津波の威力、家も車もおもちゃのように破壊されてしまった。津波警報が出て、30分のうちに非難できなかった方々、その人たちの地獄のような経験を思うと涙が出て止まりません。そんなところにいなくて良かったと思う裏には、私達のこれからの日本の同胞に対しての思いやりと援助をこれからもしてゆかなければなりません。

アメリカの二ユースを見ていると今回起こった災害の中で、日本人の気質のことが色々な面で再認識されています。例として長い列の中で食べ物や水をもらうのに長い間待っている間、自分の番が来るまでじっと我慢して待っている、ただそれだけのものでも日本人は秩序を守る人たち、辛抱深い人たち、お互いをRespect する精神の持ち主と、再確認されているようです。それを聞いて、私たちは嬉しい。この頃日本人は少し堕落したなんて聞いていましたが、本当は今でも日本人の心の深いところに人生とは自分だけのことではなく、皆と一緒に支えあって生きて行くことが大事であるとの心構えがあるのではないでしょうか。それが苦しい時、悲しい時にお互いを助ける精神として出てくるのではないでしょうか?

もう一つの日本人の精神が原子力発電所の事故現場で感じられます。私はアメリカで、3 mile island と言うペンシルベニアに在る原子発電所の1979年におこった今回の福島第一原子発電所とよく似た事故の時,25マイルはなれたGetysburgと言う町にあるルーテル神学校の4年生でした。まだその頃はアメリカ人も放射能の危険さをよく認識していなかったので、10マイル以内に住んでいる人はそこを出なさいと言う命令が出されました。

然し風の具合では放射能もGettysburg の方に来るかもしれないと言われて神学校の多くの人たちはキャンパスから何週間にわたって出たのです。日本の広島と長崎の原爆の影響を知っていた私は先頭に立って放射能の怖さを皆に語ったのですが、目に見えない怖いことはその時多くのアメリカ人は気ずくいていなかったのです。

3 mile islandの事故では、放射能はそんなに外に出なかったと言っていましたが、実際には原爆病がでてきて何百人の人たちがその後亡くなってきたのです。それを知って私は、叉私たちは、今も福島第一原子発電所で一生懸命これが原子発電所の致命傷にならないように日夜24時間働いている人たちに感謝をすると共に、この命を掛けての仕事をしている発電所の人たち、消防署の方がた、自衛隊のヘリコプターのパイロット、叉そこで働いている方々の家族に神様からのお守りを祈るばかりです。

世界の90カ国から援助部隊を送りたいとの申し入れが日本の政府に入ったと聞いています。人間は困っている人を助けたい、泣いている人を慰めたいと言う思いがどこの国から、どこの文明の人たちも持っているはずです。

この東北大震災は日本の歴史に大きな影響を与えるでしょう。然しこれが私達の祖国の精神を強め、日本という国はよくやった、よく立ち上ったと世界にpositive な影響を与えられる国にいなってくれるよう祈ります。

英語に、  “God helps those who help themselves”と言う言葉があります。その意味は「私たちが物事に一生懸命真心を持って取り組む時、神様は私達の助けとしてそこにいるのだ」ということです。祈りましょう。

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