April 3rd, 2011

2011年4月3日四旬節第4主日聖餐礼拝説教「光りの中で生きる」 “Living in the Light”岸野牧師

牧師説教, by admin1.

私達の父なる主イエス・キリストの恵みと平和が、あなた方の上に豊かに与えられますように。アーメン。

アラビヤのらくだの小隊の昔話の中にある一つの話を紹介しましょう。ある夜、テントの中で寝ていた男が夜中に急におなかがすいて起き上がり何か食べるものがないか、蝋燭の火をつけて探し始めました。麻の袋に入っていたdates (なつめやしの実)を見つけてそれを食べ始めたのですが、その中に虫を見つけてこいつはだめだと口から吐き出したのです。次に口に入れたdates もよく見ると虫がついていた。これも駄目だと投げ捨てたのですが、この調子では何も食べるものがないと考えて、今度は蝋燭の火を消して袋に残っていたdatesを食べ干したのです。

私はまだ小さいころ暗い所にいると何か自分の周りが大きくなってその反対に自分は小さくなっていったような思いによく駆られることがありました。叉夜お風呂屋さんに行って帰り道の暗い中をよく家まで駆けて走ったことを思い出します。今でもHalloween のシーズンに遊園地で行なうお化け屋敷に入ってみたいと思うことはありません。暗い所、それは私にとって、叉多くの人たちにとって怖い所、悪いことが起こる所、そしてその場は悪魔の所と言う潜在意識が強い所です。叉、暗いと言うことは、人間として他者への愛と思い遣りが無い処では無いでしょうか。

今日のエフェソの使徒への手紙に、聖パウロはこのように書いています。「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光りとなっています。ですから、光りの子として歩みなさい」。これを読んで、私が思い出したのは、クリスマスの時によく聞く、イザヤ書9章1節の言葉です。「闇の中を歩む民は、大いなる光りを見、死の陰の地に住むものの上に、光が輝いた」。英語では、 “The people who walked in darkness have seen a great light; those who dwelt in a land of deep darkness, on them has light shined.”

ヨハネによる福音書の1章の始めにも次のように書かれています。「初めに言葉があった。言葉は神であった。言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光りであった。光りは暗闇の中で輝いている。そして暗闇はこれに勝たなかった」。

イエス様によって生きる者は光の子として生きると言われていますが、私たちが本当に光りの子であるならば、イエス様の光りによって、イエス様の御心にかなう善意と、正義と真実の行ないが出来るのです。イエス様の光りなしで私たちは自分の人生の道を築くことはできません。皆さんは夜空に出る月を見る時、その月の輝きが月自体から出ていると思いますか? そうではなくて、月が光るのは月が太陽の光りを反射しているからです。ということは、私たちも神様からいただいた光りを思いやり、祈る心、奉仕の精神と言う言葉と行いを持って私達の隣人に反射させているのです。

私の住んでいるRiversideは人口37万人のLos Angeles から60mile 東にあります。仙台市が姉妹都市で、過去10年ほど、毎年仙台から、またRiverside からの団体がお互いを尋ね合っています。今回起こった地震のため、特にRiverside の市長をはじめ多くの市民が先頭に立って募金運動を行いました。今すぐには行けないけれど、できればこの夏に、中学生から大学生まで、大人も交えて日本に行って何か形で仙台にいる友達を助けたいと語っています。

神様のイメージで作られた私たち人間はお互いを助け合って生きてゆく時、神様という創造主が私たち人間に示された愛を感じられるのではないでしょうか。

今日のエフェソの信徒への手紙の中で、聖パウロはこう書いています。「あなた方は、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています」。神様は私たちに何時も光りの子であるようにと祈ってくれているのです。光りの子は人間の一番美しい形です。

私の好きな聖句の一つはコリントの信徒への第一の手紙、12章26節です。「一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです」。これを言い返すと、「もし私達の一人が悩めば、他の人たちも皆共に悩み、一人が喜ぶなら、私たち全ても喜ぶ」と言えます。

私たちが始めた祈りのマフラー、Prayer Shawl はこれから作る人も、受け取る人も日本人だけでなく、祈りを必要としている全ての復活ルーテル教会員の人たちに上げられるよう皆さんに話しかけています。苦しい時、悲しい時、淋しい時、心も体も疲れきっている時、そんな時、私たちは友達の慰め、訪問、思いやり、何か作ってくれた食べ物、Hug, そしてそこに祈りのマフラーを受け取ることは嬉しいことです。誰かが私の様な者を思ってこれを編んでくれたのかと思う時、そこに神様が、私達と共にいるのです。

さて、1988年のWinter Olympicに起こった出来事を紹介しましょう。これは去年、土曜日の夕拝をやっていた時、説教で話したもので、すでに知っている方もいるでしょう。この話しの主人公はアメリカの金メダルを期待していた長距離スピード・スケーターのDan Jansen と言う選手です。この人の写真を見て、ああこの人見たことがあると思われ方いると思います。彼のレースの始まる2時間前に電話でDan のお姉さんが亡くなったことを知らされました。彼のお姉さんは何年も前から白血病で苦しんでいた人でした。この悲しいニュースを受けて、お姉さんの為にこのレースを捧げようと思ったのですが、初めのカーブでころんでしまったのです。4日目にもう一つのレースに出たのですが、これでもころんでしまったのです。心が落ち着かなかったんでしょう。彼の泣いている姿を見て多くの人も涙を流しました。彼は何千通もの慰めの手紙を受け取りました。その手紙の一通はMark Arrowood と言う30歳の身体障害者からで、その手紙の内容はSport Illustrated という雑誌に書かれています。それを紹介しましょう。

“Dear Dan, I watched you on TV.  I’m sorry you fell two times.  I am in Special Olympics.  I won two gold medals seven years ago at the Pennsylvania State Summer Olympics, right after my Dad died.  Before we start the games we have a saying that goes like this.  “Let me win but if I can’t win let me be brave in the attempt.  I want to share one of my gold medals with you because I don’t like to see you not get one.  Try again in four more years.”

Dan は様な行為こそ私たち人間が神様から戴いた思い遣りの心です。教会は神様からの福音を聞く所だけでは在りません。他者との関係の中でそれを実行してゆく所です。その福音が実行される場には必ずイエス様がいるのです。

さて最後に、アメリカ、コネチカット州のNew London Harbor というところで  燈台守の仕事をしてきたJacob walkerさんの話しを聞いてください。40年の間、彼は一日も休まずこの燈台の仕事を守った人です。海で仕事をするものにとって燈台は道しるべであり、頼れる存在です。然しその裏には昼間も、夜も光りを絶えない様に守る、叉、危険も覚悟での仕事です。このJacob さんは60歳で亡くなり、彼はこの燈台が見える丘の上にあるお墓に葬られました。その後20年、こんどはJacob さんの奥さんが燈台の火を守っていったのです。ある日新聞の記者がこの奥さんを尋ね、「この灯台の火を守るとはどういう心構えが必要ですか」と質問したのです。奥さんはご主人のお墓を眺めながら言いました。「私の主人は生きている間、毎晩口癖のように光りを大切にせよ」。それは英語で、  “Mind the light”です。

同じように私たち、イエス・キリストに従う者は神の光の中を歩む者です。神様の光りは私達を常に善良、正義、そして真実の道に導いてくださるのです。アーメン。

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