April 4th, 2011

2010年5月29日 修養会での証し :「こんなはずではなかった」  芙美Liang

証し、その他, by admin1.

一ヶ月程前に今台北に住んでいる長男に女の子が生まれました。私にとっては初孫です。生まれてから暫く毎日のように長男とメールのやり取りがありました。スケジュールを徹底させて、母乳の後はおむつを替えて寝かせるけれど、どうもぐずつき出すと黙って見ていられなくて抱っこしてしまう。本には、泣くのは赤ちゃんの運動だから、お腹がすいていなくて、おむつもぬれていなくて、熱も無ければ別に泣いてもほっておけば眠るとあるが、どうもほってとけない、等、真剣に「親の仕事」に取り組んでいる様子が、メールの向こうから感じ取れます。
果たして私が母親になった時はどうだったかしらと思うと、いかに自分が自己中心に生きて来たか今更ながらに考えさせられました。子供の頃から、いつも「自分」が中心にありました。弟が生まれてから体が弱く、よく病気をしたので、母は常に弟につきっきりでした。今思えば当然のことですが、5歳の時に「ママもパパも私を可愛がってくれないから私は今から家出します。」と言って荷物をまとめた事もあります。私の頭の中には、「こんなはずではなかった、どうして私がほっておかれるの?」という思いだけがあり、弟の体の弱さや、両親の大変さなどは考えませんでした。

母親は厳しい人でしたから、いつも「やさしい母親がほしい」とばかり思っていました。今思えば、台湾から日本に渡り、結婚して日本に住んだ母は、「何所に行ってもどんな事に耐えてしっかりと生きて行ける女性」に娘を育てたかったのだと思います。それが解ったのは、高校を卒業してから台湾に始めて一人で帰った時でした。まったく解らない中国語での授業に、何度も日本に帰りたいと思った事か。「こんなはずではなかった、台湾にくれば親から離れて自由に暮らせると思っていたのに。勉強がこんなに大変だとは、一人暮らしがこんなに淋しいとは、こんなはずではなかった」と思う事然りでしたが、アパートで自炊をしながら頑張って行けたのは、母が厳しく育ててくれたからだとその時気がつきました。そして羽田を発つ時に母が「祈っているからね」と言ってくれた事も大きな力でした。父は商売人でしたから、夜は遅く、子供の頃は「怖い存在」でしたが、一生懸命働く父の姿を見て成長することが出来ました。幼い時に父親を亡くした父は、旧制中学の時から台湾の親元を離れて日本に留学に来たわけですが、それから波瀾万丈の人生を送ります。父は身を以て私に、「どこに行ってもしっかり生きて行きなさい。」と示してくれました。私が「自己中心」な事を一番解っていたのは父だと思います。私は負けず嫌いだったので(今でもそうかも)成績は何時もよかったのですが、中学2年の時、急に勉強をしたくなくなり,成績が落ちた事がありました。夏休みの前に家に持って帰った成績簿を父が見た時、何と言われるかとびくびくしていた私に、父はこう言いました。「パパは、国語や数学の点数が落ちた事は別に心配しない。これは、芙美がやる気がないからで、勉強すれば点数はまた上がるでしょう。心配なのは先生の評価にある“人間的豊かさ”がB−という所だ。これはどういう事だと思う?」と聞かれました。そして一夏父が逗子に夏だけだす中華食堂の手伝いをさせられたのです。夏休みの親子ずれや、逗子海岸にやってくる若者たちで食事時は満席になり、大変な忙しさの中、不満そうな顔をした私の表情を素早くキャッチしていた父は、夜家に帰った後、「今日の芙美の態度は何だ?どうして不満だったか言って見なさい。」と聞かれました。黙っている私に父は、「パパが言ってあげようか。芙美は同じ年頃の女の子が楽しそうに食事をしていたね、それを見ながら、自分の夏休みはこんなはずじゃなかった、とおもったんじゃないの?羨ましいと思ったんでしょ?パパは見ててわかったよ。」言われて私は心の中で,よくぞ解ってくれました、と思ったのですが、次に父はこう言ったのです。「そういう気持ちが無くなるまでは、芙美にはアルバイト料は出さないからね。」大変なショックでした、さんざん苦労しているのに、夏休み遊べないし、お金ももらえないなんて。でもその時に私が学んだ事は、どんな場所に置かれても、どんな状態にあっても、喜んで今するべきことを一生懸命することでした。

アメリカに来て、始めての仕事が「Sunny Delight」の工場で、プラスティックのボトルの底に日付のスタンプを押す事でした。スタンプを押しながら、国立政治大学を出た私が、こんな所でニコヨンみたいな仕事をしている姿をみたら,親は嘆くだろうなあ、と思いました。でも、父はきっと「どんな仕事でも喜んでやりなさい」というに違いない、とすぐに思い直し、一生懸命スタンプを押したことを思い出します。

そしてやっと正式な仕事に就いて保険がもらえるようになったのは、アメリカに来て半年してからでした。主人がまだ大学院に入ったばかりでしたが、その時妊娠し、アメリカに来た翌年に長男が生まれました。小さいアパートの台所の床に座って、泣き続ける赤ん坊を抱きながら、「泣きたいのはこっちですよ、こんなはずではなかった。アメリカに来たら主人が全てを面倒みてくれるはずだった。結婚すれば幸せになれるはずだった。子供が生まれたらもっと楽しくなるはずだった。こんなはずではなかった。」そう思いながら母親に国際電話をかけたことを思い出します。母から「母親はあなたしかいないんだから、しっかりしなさい。」と言われました。

子供を育てながら、私も成長して来たような気持ちがします。子育てこそ、一番「こんなはずじゃなかった」事で、子供は親の計画通りには育ちません。さまざまな出来事から、私も子供と一緒に学びました。長男が幼稚園に行く年頃になり、そのころ住んでいた家の真向かいの方が、クリスチャン学校の校長先生で、彼女の息子もその学校に通っていて家の長男とは良く遊んでくれていたので、その学校の幼稚園に通う事になりました。それから子供達と一緒に神様のみ言葉を聞く機会に恵まれるのですが、始めて神様のみ言葉が心に入って来た経験をしたのもこの頃からでした。学校時代に礼拝がありましたし、日曜学校にも行っていました。台湾でも祖母と教会に行っていましたが、私がここで今生きているのは神様のご計画なのだと始めて気がついたのはこのときでした。そして、始めて「こんなはずではなかった」全ての事柄が本当は「それでよかった」、だから今の私があるんだ、と気がついたのです。神様が与えてくれた厳しい母親だからよかったんです。 お給料を父がくれなくてよかったんです。台湾で一人で苦労してよかったんです。それら全てが、アメリカに来て、子育てをして、仕事をして、いろいろな事にぶつかった時に乗り越えて行けるようにという神様の特別なお計らいだったのです。神様は私達がこの世で送る人生が、一人一人違うことをご存知です。日本で暮らそうと、アメリカで暮らそうと、台湾で暮らそうと、同じようにそれぞれに与えられた人生を送るしかありません。私達はどこにいても寄留者です。私の両親は台湾から日本に行った寄留者です。アメリカ生まれの長男は台湾に住む寄留者です。市民権やパスポートはただの「身分証明」でしかなく、どこにいても毎日起こる様々な出来事に対応し、巡り合う人々と交わり、いろいろな体験をし、悲しい思いも、嬉しい思いも、人間は繰り返していくのです。でも私達はただ単に与えられた人生を送るのではなく、神様と共に生きる人生を選ぶ事ができるのです。それが解って来たとき、始めて自分が好きになりました。「こんなはずではなかった」と自分のことばかり考えていた私は、とても好きになれる自分ではなかったのです。中村先生がAAPIの時にお話して下さったのですが、その時に語られた素晴しい言葉のなかで、私が一番好きだった言葉は、「Enjoy yourself in Christ.」でした。イエス様と一緒にいる時の私が一番好きな私です。もっともっと自分を好きになれるように、常にイエス様に戻って、与えられた人生を、何処に置かれようと、喜んで生きて行きたいと思います。

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