April 6th, 2011

過越しの食事礼拝 2009年4月9日 (Maundy Thursday)

証し、その他, by admin1.

過越しの食事礼拝 2009年4月9日 (Maundy Thursday)

 ユダヤ人が守っている習慣の中に、過越の食事があります。毎年イースターが近づく頃になると、「過越の祭り」という名称をよく耳にして来ました。いったい

どんな食事だろうかと興味はありましたが、一度も経験する機会に恵まれませんでした。今年は幸いな事に、伊藤牧師により、「過越しの食事礼拝」が計画されました。食事は聖木曜日の11時開始です。 食事の全ては伊藤先生が準備され、午前10時前から食卓の用意が始まりました。私にとっては初めての経験なので、何をどう準備して良いのか解りませんでしたが、全て伊藤先生の指示に従い、テーブルのセットが完了し、種入れぬパン、苦菜、ゆで卵、羊の肉、リンゴをすって作られたペースと等が机の上に並びました。いよいよ食事の始まりです。

 伊藤先生の司会により、過越の食事の説明が「出エジプト記」を読む事から始まり、ユダヤ人の慣わしに習って、母親役を務める愛子さんが蝋燭を点火され、この家が祝福されるようにと祈りました。そして食事で用いられる食物を伊藤先生が祝福し、第一の杯、感謝の杯を注ぎ、各自に分けられました。過越の食事の間、ぶどう酒の杯が四回廻されます。一つの杯よりぶどう酒が分けられるのは、ここに集う人々の一致のしるしを表すのだそうです。最後の晩餐の時、イエス様はまだ聖別されていない杯を弟子達に廻されたのです。テーブルに着いた私達一同は讃美の言葉を同時に唱えた後、第一の杯を飲みほしました。 それに続いて司会者が手を洗います。キリストは手を洗う事に代わって、弟子達の足を洗われました。これは新しい愛のいましめを表す事であり、また仕えるという新しい律法のあり方を示すためだという事をこの場面から学ぶ事ができました。なるほど、聖木曜日にはよく牧師が信徒の足を洗われるのはこういうことか、と思いました。次に伊藤先生は苦菜を手に取り塩水で洗われました。私達も、個々に準備された塩水に苦菜を浸し洗いました。 ここに備えられた種入れぬパンは、エジプトを出るとき、パンを発酵させる時がなかった事を思い出す為であり、苦菜を食べるのはエジプトの地で先祖が耐えた苦役を覚えるためなのです。「語り手」の説明の後,第二の杯が注がれました。この時に、出エジプト記に記された最初の過越の物語が語られ、最年少の者が伝統的な四つの質問をします。最年少役の広子さんが四つの質問を読みました。1、どうして今夜は他の日の夜とちがうのですか。2、どうして今夜は種入れぬパンをたべるのですか。3、どうして今夜は苦菜を食べるのですか。4、どうして今夜は過越の礼拝をするのですか。これらの質問を読み上げた後、伊藤先生が羊の肉が盛られた皿を高く上げ、これは主の過越の犠牲である、エジプト人を撃たれた時、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、我々の家を救われたのである、と説明されました。次に、種入れぬパンを高く上げ、その説明をした後、苦菜を取り高く上げ、エジプト人がユダヤ人の先祖達に与えた苦役を思い出すのである、と語られました。ハレルヤ詩編を讃美し、食物の祝福をし、第二の杯を飲みます。続いて司会者は種入れぬパンを裂き、食卓の私達に廻します。こうして一つのパンがさかれ、分けられるのは、一致の意味を表していることをここで学ぶのです。そして私達は司会者伊藤牧師の指示に従い、苦菜と種入れぬパンを一緒に食し、「ほむべきかな、天地の造り主、主なる神よ、あなたは戒めによって私たちをきよめ、苦菜を食べるように命じられます。」と唱えます。そして各自が黙祷し、ルカの22章を読み上げます。

これらの説明と儀式が終わり、ここから過越の食事が行われるわけです。 伊藤先生の準備して下さった、「種入れぬパン」、また「苦菜」、「子羊の肉」を皆でいただきました。この他に準備されたゆで卵は「神殿」を表すのだそうです。ちなみにこの卵はイースターエッグとも解釈されるのではないか、と思いました。リンゴをすって造られたペースとは、イスラエル人がエジプトで強いられた苦役、例えばしっくいこねや、れんが作りなどを覚えて、「しっくい」を表すものだそうです。伊藤先生が心を込めて準備をされたこれらの過越の食事を味わいながら、ユダヤの古い習慣を学ぶだけではなく、イエス様が最後の晩餐でこのように一つのパンをさいて、弟子達と分かち合い、杯を廻された事を思い、出エジプト記に記されたイスラエル人の自由と救いを求めての旅立ちと、私達の罪の為に十字架へと旅立たれたキリストの旅立ちを覚えずにはいられませんでした。私達は一同先生の説明を聞きながら、過越の食事を味わいました。そして食事が終わった後、第二のパンが持ち出されました。

 おそらく最後の晩餐では、主はこの時にパンをさき、弟子達に「これはあなたがたのために与える私のからだである。」と言われたのでしょう。私達もパンを手にもって主の御名をほめたたえ、パンを食べました。第三の杯が注がれ、祝福の杯に与りました。最後に終わりの杯が注がれ、私達は一同杯を上げて神をほめ、司会者の伊藤先生の祝祷を受け、杯を飲み干し、礼拝が終わりました。この日の為に用意されたハンドアウトには、第四の杯を飲み干すと記されたあと、一番最後に「旅立ち」と書かれていました。過越の食事は、旅立ちの食事でもある事がここで理解できます。ユダヤ人たちは、エジプトから解放され、神を信じ、自由を求めて「旅立ち」ました。私達の罪を担い、イエス様は十字架へと「旅立ち」ました。私達も、毎年灰の水曜日が訪れる度に、復活のイースターの喜びを待ち望むよりも先にしなくてはならないのは「旅立ち」ではないでしょうか。イスラエル人の歩んだ苦役の日々を覚え、キリストの十字架を思い、心を整えると時ではないでしょうか。心を整えて永遠の命へと旅立つ事ができてこそ、初めてイースターの朝、復活の喜びに溢れるのではないでしょうか。食卓を片付けながら、今年のイースターは特別なイースターになりそうだ、と思いながら自分に問いかけてみます、「旅立ちの用意はできていますか?」 

 芙美Liang 記

 註:この日に使われたハンドアウトが欲しい方は、LCR日本語部までお問い合せください。

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