April 6th, 2011

神と共に歩いた私の人生 by よし子 Oster

証し、その他, by admin1.

神と共に歩いた私の人生  by  よし子 Oster

私は日本人を両親に韓国で生まれました。父は病院の薬局長、母は看護婦でした。父は42、母は35歳でした。母が私を妊娠している間母は大変具合が悪く、医者は母の命を保つ為に妊娠中絶を勧めましたが、母の答えは「NO!」でした。「私は34年間生きてきました。私の赤ちゃんが生きる時です」と言い、私の生後6ヵ月目に35歳で亡くなりりました。父に「母が『No』と言った時なんと思いましたか?」と聞きました。父は「僕には彼女の考えを変える力があったけれど。赤ちゃんに命をあげる事が彼女の唯一の願いであるのを尊重した。」と言いました。「彼女を亡して僕の一部が無くなったけれど、僕には彼女との約束があった。僕は絶対再婚しない、そして子供の世話を立派に果たして誰からも母がないことで指をさされることがないように、僕が母と父との役を果たすと。。」私は素晴らしい父に恵まれて、日本人の乳母たちと家政婦に囲まれて育ちました。父は規則には厳しくても、愛と優しさを与える母と父として育ててくれました

 終戦がきて、父と5人の友達は大きいフェリーボートを買い日本に帰ることになりました。合計54人の家族でした。父に「誰がキャプテンなのですか?」と尋ねたら「僕だよ」と言うので驚かされました。キャプテンの免許をちゃんととってあったのです。韓国人の海賊がいると聞いた父は2人韓国人の技師を雇いました。案の定、日本と韓国との中間で小さいボートが接近しました。父は2人の韓国人を呼び、近づいた船の船員と会話すると、ボートは去っていきました。父は2人に「日本に無事に運んでくれたらボートは彼らの所持品として韓国に航海して帰るといい」と約束して雇ったことを幸いといいました。日本に近づくと海に仕掛けられた爆弾を避ける為に夜の航海を諦めることになりました。時にはエンジンを止めてすべることしか出来ませんでしたが、やっと九州の港に着きました。2人の技師に感謝し安全な航海を祈って別かれました。

 初めにはおじの家にいましたが、しばらくして父は家を建てて、1948年その家で私が16歳になる直前に亡くなりました。父が死ぬ三日前に、父は私に三つの助言をしました。①いろいろお見合い結婚を勧められるだろうが、それに圧されてはいけない。愛情なしで結婚してはいけないから。②傷つける人に沢山逢うだろうが、決して仇で返してはいけない。取るなら、あなたもそれらの人と同じ位に落ちてしまうのだから。③どんな事があったとしても、常に朗らかにいなさい。三番目の約束を守ることは本当に辛いことでした。けれど何が起ころうと、どんなに辛いことに出くわしても笑顔を保って生きてきました。それは父の助言のせいなのです。

 私が働いていたレストランでTomに会いました。彼は優しくて二人とも恋に落ちて14ヶ月後に結婚しました。子供が出来ることは諦めていましたが、うれしいことに懐妊しました。Tomは「よしには良い靴が必要だね。」と言いました。なんと面白い反応だなと思いながら「なぜ?」と聞くと「妊婦は子供の為にも良く歩かなくてはいけないから」と言って上等なウォーキング靴を買ってくれました。なんと思いやりがある人だろうと思わせられました。私のつわりは特別ひどくて、あなたの年で(35)体重減少しているのは体に危険だから妊娠を続けることを思い直すようにと言われました。私の答えは「NO!」でした。そして5ヶ月になってやっと食事を留めていることが出来て体重も増えだしました。そして健康な女児デボラを授かりました。

 彼女が6歳の時ナンシー ツーム家の娘がデボラを教会に誘いました。その時点では私は仏教徒、Tom は祖父がエピスコパルの牧師でしたが、教会に通わないキリスト教徒でした。デボラはTom の許しを受けて教会に行って帰ってくると大変幸せそうでした。それが私の好奇心を誘いました。しばらくしてナンシーが私を聖研に誘いました。私はなにがデボラを幸せにするのか知りたくて行きました。皆さんが優しくて、雰囲気の中に何かが存在していて、その日から私の目が開かれました。私はもっとイエスのことを知りたくて英語で学ぶのは大変難しかったですが、行きつづけました。次の年9月に日本人の友人が日本語で聖研を開くとの事で大喜びで参加しました。しばらくすると、私はキリストと仏との一つを選ばなくてはいけないことに気がつきました。父が信じた仏教を捨てることに罪悪感を感じさせられました。でも、キリストは私の罪を背負って死に、心を改めれば神はお許しくださるというのに大きな喜びを得ました。そして洗礼を受けてキリストの家族となりたいと思いました。

 娘のデボラも洗礼を受けたいと言いました。Tomに教会を探してくださいと言って探して、Culver DriveのSt. Matthew’s ルーテル教会に決めました。洗礼を受ける前に、Tomが「教会というところは常に美しくスムーズにいくとはかぎらないところだよ。」と私に言いました。「これは私と神とのつながりであって、それはどんな事が起こっても変わらない」と私は言いました。2ヵ月後の、1978年7月23日に洗礼をうけて、 私たちはクリスチャン家族となりました。それから2ヵ月後には会員の半分は牧師に辞任を迫り、後の半分は残って欲しいと言う事が起こりました。私にとっては大変なショックでした。それは私への最初の(キリスト教徒としての)試練でした。牧師は(洗礼をうけたばかりの)私がどう感じているかと案じてくれました。「起こっていることは残念ですが、私には神がそばにいてくれますから」と答えました。

 Tomは教会に尽くす事が好きで、また会員からも好かれました。タートルロックでも、アーバイン市にとってもTomはいろいろ援助していたのです。彼の葬式にはユニハイバンドが全員、卒業生でさえも制服を着て参加し演奏をしたのには教会員を驚かしました。すばらしい演奏でした。Tomはデボラやほかの子供の付き添いであちこちの演奏に同行していたのです。

 私は今でも自分の父のことを話します。私はデボラも同じに父のことを語り続けてほしいと願います。35歳で今でも彼女は父のことを語ります。彼女の結婚式にはレセプションテーブルの両側にTomへの貢献で盆栽を置きました。Tomは盆栽が好みでした。デボラは現在、彼女の父の神への貢献に従い、テキサスのフォートワースの教会では次の3年間委員長をして尽くしています。

 神はなんと私たちの生活を変えてくださったことでしょう?私がクリスチャンでない時でさえ、神は私を見守っていられたのです。私はビジネスのことには無知でしたがTomが時折、こんな時にはどうするか、。などと話してくれていました。Tomが死亡した時、私にはデボラを大学に送る時期、それに義母の世話と会社をマネージする仕事を背負うことになりました。53歳で始めてビジネス業に面することになったのです。けれど神はその私を導いて見守ってくださいました。ジャン パーカーは長年私の聖研の良き指導者なのですが会社に来て支えてくれて、会社を売るまで共に働いてくれました。すばらしい友達、クリスチャンです。

 私は13年半未亡人で過ごしました。25年も知人であったダーリーン・オスターが突然亡くなりました。彼女の夫のビルと食事に出かけてダーリンのことを長いこと話して慰めあいました。しばらくすると、自分たちは愛しあっているのに気がつきました。子供たちにも祝福されて結婚しました。それから8ヵ月後に助からないだろうと医者が言うほどの心臓麻痺に襲われました。けれども、多くの方の祈りとビルの献身的な看護で回復しました。神がビルをエンジェルとして私に送られたと信じます。神はいつもおられて、愛してくださいます。クリスチャンであることはなんとすばらしいことでしょう!

 (*****この手紙は娘のデボラさんの為に書かれたものをデボラさんの許可 で読ましていただくことになりました。よし子さんのメモリアル・サービスでデボラさんがシェアされました。                                                        訳: 民 Day

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