November 22nd, 2012

長崎ミッションツアー紀行文(2012年10月12日~22日)芙美Liang

証し、その他, by admin1.

長崎ミッションツアー

 

10月11日木曜日の午後、私たち18名はLAXから日本に向けて出発した。

日本時間12日の夕方7時ごろ成田に到着した私たちは、タイミング良くシャトルバスに乗り、9時ちょっとすぎには東京ヒルトンに到着。伊藤先生と立野牧師夫人の照美さんと、お嬢さんの華美さんに出迎えていただく。全員チェックインし、明日の朝の集合時間を再確認後、それぞれの部屋に入った。私の部屋に伊藤先生たちをお招きし、短い時間ではあったがお話することもできた。伊藤先生とは、明後日の朝、東京ユニオンチャーチでお会いする打ち合わせができ、一安心。長崎からの旅行も、伊藤先生が始めから最後までご一緒くださるので心強い。

 10月13日、朝5時15分集合。ヒルトンから歩いて、大江戸線で築地市場へと向かった。愛子さんと小夜子さんは、旅行前から「自分たちが歩けなくて、皆さんに迷惑をかけたくない」と案じていたようだが、心配は無用だったようで、問題なく予定時間前駅に到着。私の従妹が築地市場に案内してくれることになっていたが、彼女と待ち合わせの時間よりも早く着いてしまい、しばらく築地市場駅前で待つ。秋晴れの青空が広がる。従妹に案内されて築地場内へ。見た事も無いような沢山の魚に驚嘆しながら築地場内の見学を楽しんだ後、築地ビルの屋上でなんと築地の社長さんが直々にご挨拶に見えたのでびっくり。社長さんから色々と説明を聞き、ご親切に私たちの質問にも答えてくださり、全員で記念撮影。その後は、お寿司グループ、ラーメングループ、天ぷらグループなどに別れて、それぞれが好きな物を食べに行く事にする。東京ツアーが午後1時からあるので、ヒルトンのロビーに12時45分に集合するということで、後は自由行動だ。

午後からのツアーは、どういう訳かずいぶんと待たされ、午後1時出発の予定が、なんと2時になってしまった。というわけで、浜離宮から始まったツアーは、観光時間を短縮されてしまい、浜離宮では催し物も沢山出ていたがゆっくり見ることもできなかった。そこから隅田川を船で渡って浅草へ。浅草ではたったの45分しか自由時間がなく、慌てて買い物をする。その後は、上野秋葉原方面へ向かい、そこでバスから降りた。上野からJRで新宿に向かう。Ashleyが、教会の友人と夕食のアレンジをしてくれていたので、彼女を待ってから、小田急デパートの12階にあるフードコートで、それぞれが好きなレストランに入り、食べたいものを食べることにした。帰りは新宿駅からヒルトンまで頑張って歩いた。なんと小夜子さんも頑張って最後まで一緒によく歩いた。

 10月14日、日曜日朝7時45分ヒルトンのロビーに集合。4人ずつタクシーで東京ユニオンチャーチへ向かう。私達は8時半からの礼拝に出席した。伊藤先生が既に教会の前で待っていてくださり、私たちを礼拝堂に案内してくださった。伊藤牧師夫人の靖子さんとも、久しぶりにお会いできて嬉しかった。この日は丁度、この教会の140周年記念にあたり、何人もの前任牧師が出席されていた。私達の教区長Bishop Finckからもお祝いのメッセージがこの日の朝一番でRandy牧師に届いているはずだ。 私は、伊藤先生から急に、「後で、牧師が皆さんの紹介をしますから、その時芙美さんが代表でご挨拶してください。」と言われた。急だったのでドキドキしたが、とにかくこの記念すべき日に共に礼拝に出席できたことの喜びと、Bishop Finckからのお祝いのメッセージを伝えることはできたと思う。礼拝は、最初から終わりまで英語だった。この日本の土地で、140年の間このような国際的伝道が行われていることを始めて知り、心から感激した。音楽も素晴らしかった。また機会を作ってぜひこの教会を訪れたいと思う。

 礼拝後、伊藤先生の案内で、歩いて原宿の皆が行きたい100円ショップへ。そして、直ぐ側の明治神宮を回り、東京駅へ向かう。明治神宮では思ってみなかった「お人形供養」や、日本の結婚式等に出会わし、見学することができた。 その後原宿から東京駅へと向かった。新しくなった東京駅は昔の姿をそのまま復元して堂々と建っていた。私たちは伊藤先生の説明を一生懸命聞いた。この東京駅は第二次世界大戦の時に3階が爆破されてなくなった。その後3階は修復せずにそのままになっていた。今回、東京駅を復元する際に、3階も加えたそうだ。その時、屋根に使う瓦は、雄勝にある硯石を使用する事になった。その硯石は、昔その地域の小学生が使った硯とおな時石だったそうである。伊藤先生はその地域の人達とボランティア活動をしていたが、その時に流された硯石を拾い、奇麗にして東京駅の3階の屋根にしようというプロジェクトが始まったそうだ。拾い集めた硯石のスレートが、今東京駅の3階の屋根となったという感動的なお話だった。今更ながらに伊藤先生の徹底したボランティア活動に頭が下がる思いであった。 

東京駅から私達は二つのグループに別れた。熊本から京都に向かう「京都グループ」の6人と小夜子さんは、私と一緒に東京駅のみどりの窓口でJRパスを発行してもらいに行く。残りのグループは、昨日築地を案内してくれた私の従妹と共に別行動をし、最終的には両国の相撲レストランで落ち合うことになった。京都グループは、パスポートを持ってこなかった人が居たので、急遽予定変更で、ヒルトンに戻ることになってしまった。ヒルトンに戻り、彼女のパスポートを持って再び新宿駅に行き、ようやく無事に全員のJRパスを発行してもらい、新幹線の切符も予約することができた。夕食は両国の相撲レストランに予約をとってあった。両国の相撲レストランは、私も行ったことがなく、ちょっと心配だった。案の定、居酒屋なので禁煙ではなく、となりの席でタバコを吸う人がいて辟易してしまった。日本はまだタバコの国だと痛感した。 帰りはヒルトンまで電車。みなさんだんだん慣れて来たようで、切符の購入も上手になってきた。明日はいよいよ長崎に向けて出発である。

 10月15日、月曜日。早朝5時50分のシャトルバスで羽田へ。羽田空港で伊藤先生と落ち合う。8時半の飛行機で長崎へ。この時思っても見なかったハプニングが起こる。チェックインの際、アイテナリーを見ていたら、なんと20日の夕方に熊本飛行場から東京に戻るはずなのが、鹿児島飛行場になっているではないか、思わずカウンターでチェックインをしてくれている人に、「鹿児島飛行場って、熊本ではないですよね?」と聞いてしまった。聞かれた方の彼女は、呆れた顔で「鹿児島飛行場は鹿児島にあります。」と答えた。大変だ! すぐにどうにかしないと予定が狂ってしまう。日本は本当にwifiが不便で、私のスマートフォンは使えないのだが、幸いなことに、主人の携帯は使える。直ぐにティケットを担当してくれた人に国際電話をする。彼女も間違えに気が付いていなかったらしい。とくかく熊本飛行場に訂正するとのことで、一応安心。そして長崎に無事到着。立野先生がドアの向こうで手をふっているのが見えた。去年の始めから計画を立て始め、それからあまりにも色々な事が起こり、一時はキャンセルしようかと思ったこの長崎ミッションツアーが、今実現している。私は言葉にならない感動を覚えながら、しっかりと立野と再会の握手を交わした。考えてみると去年の3月11日に起こった東日本大震災の後直ぐに立野、伊藤、両先生は、「るうてるとなりびと」を結成され、その地で災害にあった人たちの支えとなるべく活動を始められた。一年後に他の担当者にバトンタッチし、仙台との往復回数は少なくなったとは言え、今でも支援活動は続けておられる。(お二人は新たなプロジェクトとして現在、多くの学生たちの「卒業アルバム」を再生することによって思い出をもう一度手元に戻してあげたいと努力しながら、今でも援助活動をされている。) 次に起こったことは、立野先生が突如今年の6月から熊本に転任となった事だ。今から思えば、私たちにとってそれが最高の神様のご計画だったと確信できるのだが、その時はどうなることかと思った。今まで東京市谷のルーテル教会事務局長を務めていた立野先生が熊本に転任後、あまりの多忙に、連絡が途絶えてしまったのである。立野先生の助けがなければ、私たちの長崎ミッションツアーは到底実現不可能だ。私はかなり焦った。最終的には、神様のご計画ならば、そう成るに違いないと信じ、祈り続けた。同じ6月に主人の母が入院し、心の準備もできない内に呆気なく天に召された。なんという年だろう、と思っていたら、突然立野先生から「お待たせしました!」とも言わんばかりのメールが入り、長崎ミッションツアーの具体案が送られて来た。私は飛び上がって喜んだ。いよいよ実現可能かも?そして9月には全員の積立も終わった。一番嬉しかったのは、去年の終わりに急に乳癌だと診察され、手術後のキモセラピーを受けながら、今回の日本旅行はどうなるだろう、行けるだろうか、と心配していたJudyが、無事にキモセラピーを終え、医者からの許可も出て、長崎ミッションツアーに参加できることが確定した事だった。正に「神共にいまして、行く道を守り」、である。立野先生と握手をしながら、ウキウキした気持ちが体中から溢れ出る思いがした。

 長崎到着後、有名な長崎中華街へと向かった。そこでお昼だ。長崎と言えば、長崎ちゃんぽんか、皿うどんだ。私は始めて長崎ちゃんぽんを食べた。美味しかった。私の父は、横浜の中華街に店を立てた人なので、横浜の中華街はよく知っているが、長崎の中華街はまた一味違った雰囲気があった。食後、外海(そとめ)地方へと向かう。私は立野先生から予定表が送られて来たとき、この「外海」を見て、「Out to sea」だと思っていた。この地方は、何処の家も外を見れば海なので外海地方と呼ばれている事をこの時初めてしった。私達は先ず黒崎カトリック教会を訪ねた。これから私たちが巡礼の旅を始める第一歩である。当時の人達が苦労してひとつひとつ石を運んで築き上げた苦労を思いながら長い石段を上りやっとたどり着いた教会は、赤いレンガとステンドグラスの素晴らしい教会だった。激しいクリスチャン弾圧時代から集会場として守られてきたこの教会の歴史を説明されたガイドの松原さんはこう語られた:「キリスト教弾圧時代に、皆それぞれが隠れて集会をしていた。やっと宗教の自由が認められた時に、ヨーロッパから来られた神父が長崎に大きなカトリック教会を建てた。その時に、今まで隠れて信仰を守っていた人達の全部が自分も信者だと名乗り出たわけではない。半分は隠れ切支丹時代と同じやりかたを続けている。自分もその一人だ。水方と呼ばれる信徒が洗礼を授け、布令方と呼ばれる信徒が連絡役をつとめ、説教も信徒がする。今でもそのようにして集会を続けています」。この話に私はびっくりした。どうして堂々と教会に来れないのか、不思議に思った。同じキリスト教信者で、もう弾圧もないのだから、教会に来て礼拝を共に守れる事ができるのに、とその話が脳裏から離れなかった。その後私達は遠藤周作文学館へと向った。海に囲まれているかのような、素晴らしい眺めの場所に立てられた記念館には遠藤周作の中に育ったキリスト教に対する思いが綴られていた。先ず書かれていたのは、キリスト教は自分が選んだ宗教ではなく、母から無理やりに着せられた洋服のような物だった、と書いてある。しかし彼は、その後にこう書いている。どのように身に着けたかが重要ではなく、重要なのはその後に自分がそれをどのように身に着けて行くかが大切だ、と。彼にとって母親の存在は偉大だった。勉強ができなくて落第生だった彼に、「あなたは書くことは人よりも秀でているから、物書きになる様に」と言ったのも彼の母親だった。 この母親の姿と、マリヤ様が遠藤周作の中で重なっているのではないか、と私には思えた。何事も受け止めて、自分を赦し、愛してくれる母親の存在は、まさにマリヤ様ではないか。 次に私達は出津教会へと向った。この教会は遠くからでもよく見える大きな白い教会だった。真っ青な空に建つ白い教会の入り口では、何人かの子供達が4時から始まるクラスを待っていた。中に入ると木造の教会の息づかいが聞こえるかのようだ。黒崎教会もそうだったが、この教会も確かに生きている。この教会に来られたドロ神父(そう日本人は呼んているが、Father De Rotzと書いてあった)は、長崎に初めてカトリック教会、大浦天主堂を建てたプティジャン神父が、どうしても印刷技術を身につけた人材がこの地には必要であるという願望から長崎に呼ばれて来た。ドロ神父は、長崎に到着してから大浦天主堂で石版印刷所を立ち上がらせ、その後横浜でも印刷業を営む。その後この外海地域に来られ、この地で一生を終える。一度も母国に帰らず、教会の神父を勤めただけではなく、子供達の施設建設から始まって、救助院(Aid Center)も建てたドロ神父は、人々に魚の網の作り方、作業着(日本で初めてのユニホーム?)を作らせ、それを着て農業や漁業をし、自給自足の生活を土地の人達に教えた。日本という未知の国に来る決心をし、長崎に初めておとずれた宣教師たちがどのような思いで日本の人々にキリストの福音を伝えにきたのだろうか。フランスや他の地から全財産だけでなく、医学知識まで持ってきたヨーロッパの宣教師達の偉大さには頭が下がった。教会を建てるだけではなく、学校や、生活保護施設なども建設し、社会福祉に尽くした宣教師たちの歴史が今私たちの目の前に広がって行く思いがした。 県指定文化財になっているドロ神父記念館を見た後、私達は長崎に原爆が落ちた場所に作られた平和公園の横を通って、今日の最終到着地である、カトリックセンターへと向かった。(余談だが、ドロ神父の記念館を見た後、立野先生が、「凄いなーこの人は。これから僕をドロ神父と呼んで下さい、でもどっちの“ドロ”だろう」と冗談を言っていた。立野先生も凄いですよ!)  

カトリックセンターは巡礼者が宿泊できるようにと建てられた場所で、大きな畳の部屋で5−6人が布団を敷いて寝る。ちょとしたキャンプ気分だ。部屋に荷物を置き、一休みした後ロビーに集合し居酒屋へと歩いた。ここで有名な「立野の10分」の出現。立野先生は、「歩いてすぐですから」と言って、先ずは市電まで歩く。決してすぐではなかった。市電を降りてからまた歩き、居酒屋に着いた。もの凄い急な階段を二階まで上るのだが、愛子さんはきっと必死な思いで階段を上っただろうと気の毒になった。ここでも立野先生のコネクションで、なんと食べ放題の見放題の3千円。皆さん喜んで長崎での最初の夜を祝して乾杯!楽しい祝賀会のひと時だった。

 0月16日、センターで軽い朝食をすませ、センター前のバス停まで皆さんスーツケースをゴロゴロと押して行く。今からバスに乗って長崎港に行く。市バスなので、私達20名がスーツケースを持って全員乗れないだろう、と心配していたら、なんと続けてバスが二台来た。神様ありがとう!!長崎港から7時40分発のジェットフォイルに乗って五島の福江港へと向った。昨日回った外海地方から、当時3千人ものクリスチャンが、幕府の弾圧から逃れて五島に逃げたという。一時間位で福江港に到着した。マイクロバスが待機していた。今日からのガイドは松尾さん。笑顔の清々しい78歳のおじさんだ。社会科の教師を引退してから五島の資料館で働いていた時に、ボランティアでガイドをしてくれないかと依頼されたそうだ。最初に福江教会堂を訪ねた。聖断の後ろの壁に掛かっていた、イエス様の心臓に茨の冠が描かれた大きな絵画が印象深かった。この後、私達は堂崎海岸に向った。ここの教会へは、皆さん昔船で通っていたというだけあて、長い船着き場が路沿いに作られていた。昔はこの路もなかったのだろう。私達が船着き場と道路が一体になっている不思議な路を歩いて暫く行くとそこに堂崎教会があった。教会の前には、「聖ヨハネ五島」 “ St. Joannes De Goto”の銅像があった。十字架に釘付けられた聖ヨハネ五島は、日本26聖人の一人で、1597年に19歳の若さで殉教した。福江に生まれ、伝道師を志して長崎と天草の神学校に学んだ彼の一生は、豊臣秀吉の命令一つで終わってしまったのだ。宗教の自由な時代に生きる私達には到底想像できない。教会の中に入ると、松尾さんが天井を指差しながら説明を始めた。「皆さん、当時ヨーロッパからこられた宣教師達は、ヨーロッパの教会の設計図まで持って来たのですが、日本の建物とは違い、天井が高くて丸くカーブしている。どうやって作るのかと迷った大工さん達は、竹を曲げてその形にして作ったそうです。」 日本人は本当に器用な民族だ。

この後小さな宮原教会に行く。皆さん歩き疲れた頃に遣唐使ふるさと館でバイキングの昼食となった。このレストランの屋根が「ノアの箱船」のように作られているのが印象的だった。食事の後、旅客船に乗って人口180人の嵯峨島に向った。小さな旅客船のデッキに座った私の横には、小柄なおばあさんが座っていた。「私は漁師を54年間やって来ました。」というそのおばあさん。この旅客船でいつも福江と嵯峨島を往復しているそうだ。しばらくして嵯峨島に到着後、病院もスーパーも無いこの島で生活する人達にとって、この旅客船で福江を往復する以外、生活に必要は買い物をする手段がない事が解った。ここから嵯峨島教会へと歩いて行く。なんと旅客船で隣に座っていたおばあさんは桟橋のすぐ側に住んでいて。彼女のご主人が出て来て、自分が教会まで案内すると言われた。嵯峨島教会のメンバーなのだそうだ。山の上の小さな教会で、ご主人の川上さんがこの教会と島の歴史を私達に話して下さった。貴重な証しである。今教会に毎週集ってくる人達は5人位だそうだ。一ヶ月に一度本土から神父さんが来るということで、小学校もう一つ、中学も一つ、高校は福江にある福江城が高校になっているそうだ。若者達は子供達の将来を考えて、皆福江に移り住み、家業の漁業を続ける為に福江から旅客船で嵯峨島に通って来ると言う。厳しい現実に反して、川上さんの表情はやさしく温かい。 川上さんは校長先生をされていたそうだ。私たちは、その次に貝津教会を見学した後、松尾さんの案内でこの教会から歩いてすぐにある千畳敷海岸に行った。どうやって文章にしてよいかわからないような、

千畳敷の岩が海に突き出ていて、それに波が白いしぶきを上げてぶつかる様は、何時まで見ていても飽きない風景だ。岩の間にできた自然な水たまりには、小さな魚や蟹が泳いでいる。まるで大きな水族館の中にいるような気分だ。崖っぷちには、手書きで「ふるさとの海がいつまでも恵み豊でありますように」と書かれたサインが建っていた。残念ながら島散策の時間が終わってしまったので貝津港へ戻る。今日最後の旅客船は4時出発で、それに乗らないと明日の朝まで旅客船は来ない。港へ戻る路を急ぎながら、「川上さんは居なくなっちゃたわね、お家に帰ったのかしら?」と話していたら、なんと川上さんが大きな袋にアイスクリームを沢山入れて私達に持って来て下さった。何も無い島なのに、どこからこんなに沢山のアイスクリームを集めて来て下さったのだろう。旅客船を待つまで、私達はアイスクリームを楽しみながら川上夫妻とお話をすることができた。日本の古き善き時代をこの小さな島で体験することができた。おばあさん(川上夫人)は、他の島から船でこの島に嫁いでこられたそうだ。ご主人の顔も知らないで嫁がれ、何も無い島で大変苦労されたそうだ。楽しくおしゃべりをしていると、旅客船が到着した。私達は川上夫妻に見送られ、船上の人となる。いつまでも手を振って送って下さったお二人の顔を、私達は一生忘れないだろう。この夜の宿泊は五島の福江にある上乃屋だった。こじんまりとした旅館は、皆さん親切この上ない。なんでも丁寧に教えてくれた。食事前の散歩のつもりで、旅館の外の路をずっと下って行くと、なんと福江城の裏門にでた。そこから高校生が自転車に乗って出て来る。そうだ、ここは高校の校舎になっていたんだ、と思い出した。五島でただ一つの高校である。 夕飯は典型的な旅館の食事だった。皆さんにとっては興味深かったに違いない。(好きか嫌いかは別問題として) 食後、皆で散歩にでたのだが、ここは夜8時を過ぎると店が全部しまるらしく、本当にスーパー位しか開いていなかった。美味しそうな果物を買って旅館に戻り、早めに寝る事にする。明日の朝も早い。

 10月17日、旅館の朝食に納豆がでた。皆にどうやって食べるか指導したが、ハロルド以外、誰も試そうともしなかった。福江に住んでいるガイドの松尾さんが、旅館までバスで迎えに来られた。引き続き五島のツアーが始まった。何人ものキリシタンが閉じ込められた楠原牢屋を重い心で見学。当時のクリスチャン達が通った茨の道は、想像もつかない。一台のバス位の大きさの部屋に200人もの人が入れられ、立ったままで何週間も閉じ込められたのだ。どうしてこのような残酷な事を同じ人間にすることができるのだろう。特に姫島に逃れたクリスチャン達は、貧しい暮らしに耐え隠れ住んでいたが、そこにも弾圧の嵐が押し寄せ、拷問を受けた。禁教令が解けた後も、その土地には赤痢や天然痘等の災難に見舞われ、多くの命が奪われた。後に子孫の手によって先人の墓を五島に移した。私達はその姫島の人々の墓地も訪ねた。 松尾さんの話では、地域によってはクリスチャンに対してそれほどひどい仕打ちをしなかった地域もあるそうだ。それは地元の人達が皆仲良く暮らしていたから、政府の掟がどうであれ、表面上はクリスチャンを牢屋に入れたとしても、すぐに元の生活に戻してあげたという。その証拠に、ある地域の人達の墓地は、キリスト教も佛教も一緒だった。その松尾さんの話と、キリスト教と佛教が一緒の墓地を実際に見て、そこに少しは希望があるような、心が少し楽になったような気がした。 次に私たちが入った三井楽教会の中は素晴らしいステンドグラスで歴史を物語っていた。片方はキリストの聖誕から復活までの歴史、片方は、五島でのキリスト教の歴史:宣教師が長崎に着いてから、キリスト教を布教し始め、その後のキリスト教弾圧を経て、この教会ができるまでの歴史を物語っていた。この写真はいつまでも大切に取っておきたい写真である。ステンドグラスと言えば、私達が訪ねた教会の殆どにステンドグラスがあった。特に、椿の花をシンボルにしたデザインが多かった。松尾さんの説明によると、ヨーロッパから来た神父達は、キリスト教の花はバラの花だと教えたが、五島にはバラの花がなく、沢山咲きほこる椿をバラの代わりにし、キリスト教の花の代表として、ステンドグラスにも椿が描かれているのだそうだ。三井楽教会の後、日本一美しいと言われる高浜ビーチに寄る。天気はあまり良くなかったが、早速海に足を踏み入れたのはPaulとHearldだった。松尾さんはその後特別に大瀬崎灯台に案内してくれた。東シナ海に突出した岸壁の突端にある白亜の灯台は、日本の西の海の航海安全を今でも守っている。ここから日本最後の夕日を見る事ができるそうだ。当時は灯台守の家族が実際にこの灯台に住んで、子供達は歩いて学校に何時間もかけて通ったそうだ。信じられない。この日のお昼は「NEWパンドラ」で食べた。そこに掛かっている凧を見てびっくり。この凧は、昨日からCarolyn Carterが「どこにいっても見るこのキャラクターは一体何者なの?」と聞いていた凧だ。さっそく由来を尋ねた。この凧は五島では何処でもある凧で、バラモン凧と呼ばれる。代々、おじいさんが孫の健康を祈って作る凧だそうだ。この凧が五島の空を舞いながら子供達の健康を祈って祝うのだろう。 昼食の後、井持浦教会を訪れた私達は、そこにあるルルドの泉を見学。ルルドから水を運んで来た神父が、そこの井戸にその水を入れたという。ここに積み上げてある石は、それぞれの地域の教会が自分たちの所から石を運んできたという。確かに石に「福江教会」、「浦頭教会」等、様々な教会の名前が刻まれてあった。昔は水が岩から流れ出て来たのを飲んだらしいが、今はちゃんと水道の蛇口が着いていた。真っ先にJudyが行って水を手ですくって飲んだ。私もそれに続いた。彼女の癌が癒されるようにと心で祈った。この後、私達は長崎に帰る為に、五島の福江港へと向った。 そろそろ松尾さんともお別れの時が近づいた。 砂利道を歩いてバスに戻る途中、松尾さんが私に静かに語った言葉を私は忘れないだろう。「私は思うんですがね、政治家は自分たちの都合のいいように宗教でも何でもコロコロ変えるけど、漁民や農民は、一度信じたら信じ続けるんですよね。」 確かに、だから踏み絵を踏めなかった人達が沢山捉えられてしまった。そして踏んだ人達は、罪を告白して許してもらおうと、マリヤ様の像を拝んだ。自分の全てを受け入れて許してくれる母親像がマリヤ様のイメージと重なっているのだろうか。遠藤周作文学館で見た彼の母親像もそうだった。 この土地の人達が、マリヤ様に執着し、マリア観音とまで言われる「土教」に近い信仰になって行き、それが自分たちの信仰の形として育って来ているのではないだろうか。だから現在は宗教の自由が認められているにも拘らず、教会には来ないで、自分たちで集会を守っている人達がいるのだ、私にもこの変えがたい現状がだんだん理解できて来たような気がした。福江港に到着した私達は、松尾さんと記念撮影をし、別れを惜しんだ。ずっと運転し続けていた運転手の松崎さん、ご苦労様でした。そして私達は再びジェットフォイルで、長崎へと出発。 その晩は長崎駅近くにある東横インに宿泊。 ホテルの近くの出島で夕食。その後私達女性軍だけで歩いて、もう一度長崎チャイナタウンへと繰り出す。楽しく買い物をし、アイスクリームを食べてホテルに帰宅。明日はいよいよ天草へ向う。

 

10月18日、この日の午前中は自由時間ということになっていた。11時半までは、長崎原爆資料館、永井隆記念館、大浦天主堂、そして蝶々夫人で有名なグラバー邸などの名所から自分の好きな所へ行き、お昼頃に長崎から高速船に乗って天草へ向う予定になっていた。 主人は丁度良いチャンスだと、ホテルにあるコインランドリーで洗濯を始めた。私も久しぶりにゆっくり支度をして、ロビーに降りて行った。すると皆がざわついているではないか。どうやらとんだハプニングが起こっているらしい。立野先生の緊張した表情からもそれが伝わって来た。台風の関係か、海が荒れていて高速船が予定通り運行されていないという。天草に行く順路を急遽変更するので、今すぐ出発の準備をして下さいと言われた。洗濯物をコインランドリーに入れたばかりの主人の顔色が変わった。でもそれどころではない。とにかくどうにか天草に行かなくては。結局長崎駅発10時のJRに乗る事に決まった。 決まった時点で、まだ時間があるので、一カ所だけ観光が可能になった。殆どの人達は出発準備ができていたので、スーツケースを引きずって長崎駅へと急いだ。私は先ず準備できていない人達にホテルで待っているように伝え、長崎駅に走って皆の後を追った。皆は長崎原爆資料館に行く事になり、荷物を長崎駅においてタクシーで行き、9時45分までに戻って来る事になった。Judyが大浦天主堂に行きたいと願っていた事を伊藤先生が覚えていて、Judyだけ伊藤先生とタクシーで大浦天主堂に行く事になった。

私は伊藤先生の思いやりに心から感謝した。キモセラピーが終わってこの旅行に参加する事ができたJudy だが、まだ体力的にも精神的にも100%ではなかったから、彼女に取ってこの旅が癒しの旅になるようにと、私達は願っていた。伊藤先生もその事を良くご存知で、こんなドタバタしている状況でも、一番大切な事を実行される先生はさすがだ。それぞれがタクシーに乗って出た後、立野先生は電車の切符を買わなくてはならない、私は荷物番。立野先生が戻ってきた。私はすぐに走ってホテルに戻る。準備できていなかった人達が待っていた。もう観光する時間はない。私は頼まれていた文明堂のカステラを買う時間はあるだろうと思い、ホテルのすぐ側にある文明堂本店へ行き、カステラを買った。スタバでコーヒーを買って戻って来た彼女達と合流してホテルに荷物を取りに行き、もの凄い勢いでスーツケースを押して長崎駅にぎりぎりで到着。立野先生が私達を待っていた。そして全員無事に10時発のJRに乗った。この電車にのってある駅まで行き(名前は忘れたが)、そこから小さな黄色いワンマン電車で島原方面へと向い、バスで口之津まで行き、そこからフェリーにのって天草の鬼池まで行く事になった。市バスに全員乗り込んだので、地元の人達はびっくりした事だろう。普段はきっと余裕で座れたに違いない。バスの後方で立っていた伊藤先生が、急に帽子を脱いで、「皆さん、ご迷惑をおかけしています。」と言って頭を下げた。その後で先生が突然バスの外を指差して、「あー、やっぱりこのバスに乗ったお陰で島原城が見えた。このお城が島原の乱の最後の舞台になった場所なんだよ。」と教えて下さった。

 やっと口之津に着いたのはいいが、2時45分に出航するはずのフェリーが、天候のため何時出航するかわからないというアナウンスがあった。私達の目には静かな海なのだが。青空の気持ちの良い天候なのに、どうしてだろう。 立野先生が、先ず「皆さん祈って下さい」と言われ、その後で「とにかく4時まで待ちましょう」と言われた。ここで焦っても仕方が無い。私は待合室で愛子さんと小夜子さんと売店で買ったお菓子を食べながらおしゃべり。二人ともよく頑張っている。五島の巡礼の旅はかなり大変だったに違いない。この旅行は、伊藤先生がまだ南カリフォルニアで牧会をされていた時に、愛子さんが伊藤先生に「是非行きたいからお願いします」と頼んで、伊藤先生が実現する事を約束した所から計画が始まったのだ。愛子さんに取っては、待ちに待った旅行に違いない。私は何度も切符売りの窓口に顔を出し、「すみません、ロサンゼルスから18名来ていて、どうしても天草に行きたいのですが、次のフェリーは出ますか?」と聞いた。可哀想に窓口のお姉さんは、「こればかりは、天候によりますから、私達には何とも言えません。すみません。」と、彼女のせいではないのに申し訳なさそうに頭を下げた。そして4時ちょっと前に、「次のフェリーは出航します。」というアナウンスがあった。万々歳、神様ありがとう! 飛び上がって外の芝生で寝転んでいる皆に吉報を告げた。フェリーに乗り込んでいざ天草へ。

 鬼池港に到着すると、首を長〜くして待っていて下さった、大江教会の岩崎佳子さんと、本郷さんが出迎えて下さった。お二人は熊本の大江教会から、九州学院のバスを借りてここまで来て下さっていた。岩崎さんと初めてお会いする。ご挨拶をしながら、もう随分昔からの友人のような思いが気持ちになっていた。佳子さんが、「よかったねー、次のフェリーは出ないってよ。今日はあなた達が乗って来たフェリーだけが出たのよ。」と感激して教えてくれた。本当に神様のなさる事は私達の想像を超える。私達は九州学院のチャーターバスに荷物を積んで、全員がバスに乗り込んだ。前の席に座った立野先生に笑顔が戻った。ここからは立野先生が私たちのガイドだ。到着が遅かったので、計画していたようには行かないけれど、ホテルに到着前に天草陶器には行ける事になり、皆大喜び。そこで、私達はそれぞれに好きな形の素焼きを選び、その上に教えられたように絵や字を書いた。これは焼き上がって陶器になった後で、ここから直接ハンティントンビーチの教会まで郵送して下さるとの事だった。ずっと乗り物に揺られていたし、教会巡りを続けていた私達に取って、これは本当に良い気分転換だった。楽しい工芸の時間があっという間に過ぎた。いよいよ立野先生が太鼓判を押した天草のリゾートホテルへと向う。 ホテルについてびっくり!目の前に海が広がるこのアレグリアガーデンズ天草は、今までのビジネスホテルや、旅館とは全く違う。広々としたロビーの窓の外も海。 食事は6時半に私達の為に予約された大広間に集合するという事で、それぞれが先ず自分たちの部屋に行く。私は部屋に入ってこれまたびっくり。凄い豪華な部屋なのだ。お風呂場だけで、昨日のビジネスホテルの大きさはあるだろう。窓から見える海が永遠に広がって行くかのようで、疲れが癒されて行く。6時半に広間に入ると、すでにテーブルが準備されていた。岩崎さんと、バスを運転して下さっている本郷さんも一緒に、合計22名が長いテーブルに向かい合わせて座った。30センチはあるだろうお品書きを眺めながら、私達は感嘆するばかりだった。次から次にでるお料理、新鮮な魚に舌鼓を打ちながら、ビールで乾杯。本郷さんは焼酎。皆さん本当に今日はよく頑張った!食事の後、Carolyn Cartert, Jeanne Shimonishi そして私は、浴衣に着替えて露天風呂に行った。外は暗かったが、海の向こうに明かりが見えて、とにかく気持ちがいい。大きな露天風呂は私達3人だけだった。これも良い体験談になる。何時まで入っているとのぼせてしまうのでいい加減な所で出た。 部屋に戻って次の朝までぐっすり寝た。

 10月19日、朝食の準備された広間に入ると、もう既に皆さんがバイキングスタイルの朝食を楽しんでいた。今日は魚の朝食でも納豆でもない、パンもコーヒーも果物も盛りだくさんだ。朝食後すぐにバスに乗り込んで天草コレジヨ館へと急いだ。コレジヨ館は、宣教師養成を目的とした神学校の最高学府で、1591年から6年間開校され、ラテン語教育や天草本がここから出版されたそうだ。いわゆる南蛮文化の中核となった場所である。ここには、1582年にローマに使節団として送られた4人の青年達が8年後の15910年に持ち帰ったヨーロッパの楽器や、竹で作られたパイプオルガンを復元された物が置かれていた。豊臣秀吉の意向により、天正少年遣欧使節団としてローマに送られた4人は、当時12歳から14歳だったと言われる。 8年後に彼らが帰国した時には既にキリスト教に対する弾圧が始まっていた為に、無惨な生涯を遂げたという。天草にもって帰って来た物は西洋楽器の他にグ−テンブルク印刷機等もあった。現在コルジヨ館に置かれている物は全て復元されたものだ。私達の為に、地元のボランティアの皆さんが特別に集って下さり、演奏会をして下さった。その曲の中には、当時豊臣秀吉が大変気に入って何度も聞かれたという曲もあった。私はどうも日本史の勉強不足で、この豊臣秀吉が、最初はキリスト教を黙認し、ヨーロッパ文化に興味を示したのにも拘らず、1597年には命令を出して京都に宣教活動していた宣教師らを捕えた、それが日本二十六聖人の殉教である。五島で見た像、聖ヨハネ五島も殉教した一人だ。歴史には、明治政府の予想に反して、キリスト教禁止と信徒への弾圧は諸外国の激しい抗議と反発を引き起こし、岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の解禁が条約改正の条件であるとされ、1873年(明治6年)にキリスト教禁止令は解かれた、と記録されている。当時の政治と宗教の複雑な関係に挟まれ、二百年以上も迫害に耐えた人々の喘ぎが聞こえるかのようだ。

コレジヨ館の館長さんに見送られて、私達は崎津カトリック教会へと向った。この教会は1569年にアルメイダ神父によって建てられ、ここを中心にして、キリスト教は天草に栄えた。ところが1638年に禁教令が天草で実施されてから、崎津では激しい迫害の嵐がふいた。1873年キリシタン禁制の高礼が廃止後、弾圧をへて、信仰を守ったキリシタン信者のより所として1883年に再び教会が建てられた。そして昭和9年にハルブ神父によって建立された貴重なゴシック様式の教会は、小さな漁港にそびえ立っていた。小道を歩いて行くとそこはもう漁港だった。ここから見える崖っぷちにはマリヤ像が建っていて、漁師達が漁船を出すとき、先ずそこでお祈りをするという。本当に狭い石畳の道を歩きながら、伊藤先生が独り言のようにこう言っていた、「ここは今僕が支援活動で行っている岩手県にある漁港にそっくりだなあ、この地方の人達が移って行ったのかなあ」。いかにも伊藤先生らしい。 私達は崎津教会の中に入り、立野先生のお話を聞いた。聖壇のご聖体が置かれている場所を指して、「なんでここにご聖体が置かれているか皆さんわかりますか? ここが当時踏み絵の場所だったのです。毎年毎年踏み絵が行われ、踏んだ人だけが助かったんです。そして踏んだ人が告白する場所があって、彼らはそこに行って自分の罪を許して下さいと告白したんですね。それでもやはり最後は踏み絵を踏めなくなってしまい、殉教された人達が沢山いました。」 先生の話は続く、「長崎と天草の違う所は、長崎のクリスチャンは五島に逃げられた、でも天草の人達は逃げる場所がなかった。しかも当時の天草の領主はクリスチャンだったし、天草にヨーロッパ文化が入って来ていたから、幕府にとっては一番危険な場所だと思ったのでしょう、天草でのクリスチャン弾圧が一番激しかった。天草の人達は逃げる場所もなかったんです。」 なるほど、これが天草四郎と島原の乱へとつながるわけだ。 私達がバスから垣間みた島原の「原城」が最後の場所だと伊藤先生がおっしゃった事を思い出した。 崎津教会が私達の訪れた最後の教会となった。立野先生のお祈りの後、全員がそれぞれの言語で主の祈りを唱えた。

 ここから私達は熊本へと向う。今夜は大江教会で皆さんが歓迎会をして下さるそうだ。バスの中では、立野先生が引き続きお話をして下さった。天草の家々の玄関には、一年中お正月に飾るしめ縄が飾ってある。これは当時キリスト教弾圧を恐れて、「私は佛教です、キリスト教ではありません」という意味で飾りっぱなしにしたのだそうだ。この日のお昼は素晴らしい「ブルーガーデン」という岸壁のレストランだった。名前の通り、外は青い海。レストランの外にある崖っぷちの間の石段をずっと降りて行くと海岸だ。降りて行くのは簡単だったが、帰りに上ってくるのが大変だった事。フーフー喘ぎながら、やっとレストランに戻った。そしてレストランの皆さんに送られて再びバスに乗り、一路熊本へと急いだ。(天草も熊本県なのだが。)熊本市に到着。ここで本郷さんとはお別れする事になった。明日の仕事があるので大江教会の夜のレセプションには出られないという。ハンティントンビーチから下げて来たテキーラを重々しく進呈した。今夜ゆっくり休みながら飲んで下さい。本当にお疲れさまでした、心からありがとうございました。ここから私達は熊本の宿泊場である、熊本東横インでチェックインした。少し休んでから、ロビーに集合し、立野先生と伊藤先生の後を着いて大江教会へと歩いた。ここでも「立野の10分」が出現する。すぐですよ、と言われて歩いたのが30分。大江教会は九州学園の学内を通り過ごした所にあった。すでに暗くなっていたが、教会員一同が外で待っていて、笑顔でお出迎えをして下さった。なんか旅の疲れも取れてほっとした気分だ。谷口さんの司会で始まったレセプションは、本当に楽しかった。お魚ばかり食べて来ただろうから、という温かい気配りで、サンドイッチやサラダ、果物、フライやデザートが沢山テーブルに並べられ、カレーコーナまで準備されていた。このカレーが今日のお昼にフルーガーデンで食べたカレーよりも美味しかった。私達は自己紹介も兼ねて自分たちが一番印象深かった事を一人一人順番に話した。皆さんの話を聞いていると、旅で出会った人達の温かさ、そして今まで知らなかった日本の歴史等、心に残る思い出が沢山できたようだ。私も自分がいかに勉強不足であったかをしみじみと感じた旅だった。そして、今でも残っている古き良き時代の日本に触れることができた旅でもあった。伊藤先生は、「皆さんこれからお帰りになった後で、感じる事が多いと思います」、とおっしゃっていたが、正にその通り。現在私はこの旅行記を書きながら、改めて感銘する事ばかりである。伊藤先生の言われた事を英語に訳して皆さんに話しながら、本当に考えさせられた。先生は、「崎津の漁港を歩きながら、現在自分が支援している雄勝の場所に似ていると思いました。キリスト教弾圧の為に殉教した人々を思いながら旅をして来ましたが、東日本大震災で津波に流されて命を落とされた方々も含めて、本当に私達には計り知れない神様のご計画がそこにあるのだということを常に感じます。」 そのとおりである。私達が生まれてから死ぬまでの人生は、思いがけない事が起こり、決して計画通りには行かない。全力を尽くして全てを信じて神様に委ねる所に、私達の信仰が育っていくのだろう。まだまだ未熟な私である。大江教会で先ず始めに、天草の旅をご一緒してすでに仲良しになった岩崎佳子さんのご主人、岩崎先生が代表でご挨拶された。岩崎先生は、立野先生の九州学院時代の恩師だという。そして司会をされた谷口美樹さんのご主人は現在九州学院の教師を務められ、お仕事の途中からレセプションに駆けつけて下さった。谷口ご夫妻の息の合ったデユエットを聞きながら、この教会はこれから絶対に明るく前進する教会だと確信した。神様の大いなる祝福がこの教会に注がれて行く事だろう。私達がハンティントンビーチから持って来たお土産の60人分作れるコーヒーメーカー、そして聖餐式のホスチア千枚入りを10箱、をプレゼント。そしてLCRの写真をバックグラウンドに作った姉妹教会の額を進呈。大江教会からも記念品を頂き、これから姉妹教会として交わりを深めて行く約束をした。来年は復活教会日本語部が宣教開始25周年を迎える。是非大江教会から皆さんに来ていただきたいと思った。楽しくおしゃべりをし、あっという間に夜も遅くなってしまった。大江教会の聖壇の前で記念撮影をした。明日は京都に行くグループ6名、東京に帰るグループが8名、そして愛子さんはお嬢さん達と広島へ行き、小夜子さんは熊本に住んで居る甥子さんの所に行く事になっていた。明日の朝は先ず熊本教会に呼ばれている。熊本教会は、ルーテル教会が始まった場所である。そして愛子さんは是非その教会にあるルターローズのステンドグラスを見たいと前々から話していた。私達の宿泊する東横インから熊本教会まで2分とかからない。大江教会とお別れをし、夜の九州学院内を通ってホテルへ帰る途中、まだ塾で勉強している小学生達が窓越しに手を振っていた。沢山の外国人を見たからだろう。ポールが一言「なんでまだベッドに入っていないのか、この子達は」と聞いたので、「アジアの子供達は遅くまで勉強するのよ」と答えた。私の子供の頃は遊んでばかりいたのだが、今の日本の子供達は気の毒だ。五島の小さな小学校はだんだん子供達が居なくなっていると言う。嵯峨島の若者は何も無い小さな島から五島の福江に移り住む、子供達の教育の為だと言う。だんだんこうやって日本の小さな島が存在しなくなって行くのだろうか。五島といえども130の島があるという。その中には無人島もある。私達が訪ねた人口180人の嵯峨島も、いずれなくなってしまうのだろうか。あれほどまでに五島、島原、天草の歴史を大切に守り、誇りを持って生きている人達の事を思わずにいられなかった。神様の守りと導きがあるように心から祈り、眠りについた。

 10月20日、チェックアウト後、全員で熊本教会を訪問。朝比奈牧師が迎えて下さる。少し早めに着いてしまったので、応接間風な待合室で待っていると、朝比奈先生が教会堂に案内して下さった。二階にある教会は、重みのある木造の教会堂で、いかにも由緒ある教会に相応しかった。愛子さんが見たいと行っていたステンドグラスが、教会の三角形の屋根に近い壁に、奇麗に組み込まれていた。ルターローズだ。五島では全部が椿だった事を思い出した。少し熊本教会の歴史を伺った後、コーヒーと紅茶と美味しいケーキやクッキーを頂いた。温かいおもてなしに感謝。そこから京都グループはお迎えの車で熊本駅に向った。広島組と小夜子さんは東横インに戻る。私達は荷物を車に乗せて、熊本城へと向った。この熊本城の大きさに私達はびっくりした。とにかく大きい。全部回ったら半日以上かかるだろう。私達はこれから阿蘇山へ行くので、時間が限られていた。出来る限り見て、記念撮影もし、タクシーで九州学院に行き、そこから3台の車に別れて乗り込み、阿蘇山へと出発した。 普段は噴火口をあまり見る事が出来ないと聞いていたが、この日は本当にラッキーで、噴火口まで行く事ができた。皆さん大喜びである。日本のグランドキャニオンと呼んで下さい、などど立野先生が冗談を言っていたが、確かに「グランド」だった。 阿蘇山を下り、昼食はいろりを囲んで焼きおにぎりや、きりたんぽだった。美味しい昼食の後、コーヒショップでコーヒーをいただき、その次は草原で美味しいアイスクリームを食べた。熊本の飛行場に到着後、立野先生、お二人同姓同名の岩崎姉妹達、谷口ご夫妻と暫し別れを惜しみながら再会の約束を交わした。来年は是非ハンティントンビーチにお出で下さい。お待ちしています。主に在っての交わりを感謝します。お元気で!!

 朝早くから夜遅くまでびっしり詰まった内容の濃い長崎ミッションツアーが終わった。羽田に向う飛行機の中で、私はなんと恵まれた、なんと守られた旅行だっただろう、と心から感謝の思いがこみ上げて来た。実現しないかとまで思った長崎ミッションツアーが実現し、しかも天候にも恵まれ、天草にも無事に行く事ができた。小さな島で素晴らしい巡り会いを体験した。日本のキリスト教が通らなければならなかった辛い歴史を少しでも学ぶ事ができた。ヨーロッパから日本の為に命も惜しまずにやって来て日本で生涯を過ごした宣教師達の偉大さも垣間みる事ができた。この貴重な体験がこれからの私の人生にどう活かされて行くのか、それがこれからの課題のような気がする。私達のこの世での生涯は、本当に短い時間だけれども、神様は繰り返し私達に「神の御業」を示してくださる。私達は往々にしてそれに気がつかないで日々の生活を送っている。今回の長崎ミッションツアーを体験して、この旅行記を何日もかかって書きながら、私は人間の思いを越えた「神の御業」が常に私達を取り囲んでいるような思いがしてならない。純粋な神の愛に救いを求めて生きた隠れキリシタンと呼ばれた人達、その人達は、自分を無にして神様に命を委ねたのだろう。現在の有り余る程の物に囲まれた、ハイテクの生活の中で、私達は心棒である神様に常に戻って行く事をしているだろうか。都合のいい時だけ、神様を思い出し、神様を自分の生活に合わせているような気がしてならない。隠れキリシタン達にとって、自分の全てを神様に捧げた毎日は、言葉では言い表す事ができない日々だったに違いない。それなのに彼らはそれを選んだ。私は、五島の教会巡りをしながら、何度も鳥肌が立つような思いがした。自分ならどうしただろう。踏み絵を踏んだだろうか? 私達はただ日本のキリスト教の歴史を学んだだけで終わるのではなく、その歴史を歩んだ一人一人のクリスチャンの思いを伝える者として、神様が選んで下さったのだと私は思う。その思いは、これからの私の人生と共に生き続けて行く、そして私の中で大きな底力となるに違いない。

 最後に、この旅行を実現させて下さった伊藤先生、立野先生に心から感謝申し上げます。6月に熊本に赴任されてから多忙極まるスケジュールの中、長崎ミッションツアーの全行程を計画して下さった立野先生、そして協力して下さった大江教会員の皆様に、言い尽くせない感謝を送ります。バスを提供して下さった九州学院にも心から感謝を致します。参加者18名が、それぞれに持ち帰った貴重な体験を、決して忘れることはないでしょう。来年は是非ハンティントンビーチでお会いしましょう! 

 

†Fumi Liang

Cultural Ministry Coordinator/Japanese Ministry 

website:california.lcrjm.com

Lutheran Church of the Resurrection

Office: 714.964.1912

Mobile: 714.334.2227

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