April 11th, 2011

「ごめんなさい!」

証し、その他, by admin1.

 人は皆、長じて家を離れて別々に暮らす様になると、 たとえ親子の間柄でも、仲なか本音は聞き憎くなる。ましてや他人が社会生活に於いて、同一人物が同じ事柄を、涙ながらに話し、「貴方だけには本当の事を」と、言ひながら、あちこちの話をつなぎ合わせ、つくろいながらの打ち明け話には、其の人の本音は推察するしか無く、つい、まっとうに受け止めて、うっかり発言をしようものなら後々裏切られて、人間不信に陥ることが多々ある。絶えず本音と建て前を使い分けての話には相手に同情をしながらも、時にわり切れない虚しさを覚える。そして私の「神様ごめんなさい」が始まる。

長年教会に親しみ、み言葉にふれ、忍耐、寛容を学び、「愛を持って、対する相手の目線に合わせて話し、真をつくしましょう」と、人様にはもっともらしく言い、はて私は?出口の無いくり返しの会話には、口実をもうけて早々に話題を変え、知らぬ間に相手を傷つけて仕舞う。気が付き、至らなさを恥じて、主のみ前に許しを乞う身勝手さ、御免なさいの繰り返しの日々は、もう沢山?戦中派と言われ、多感な一時期に学童疎開を余儀なく過ごし、必勝を信じて、空腹を我慢し、上を向いて父母恋しの涙をこらえて過ごした年代が、敗戦より六十年の時を経て、其の連れ合いとは、初期の共通のゴールはほぼ達成して(家、教育、財産)子は親を超えて独立、残された二人は、お互いに新鮮味が無く、会話も少なく、相手に対しての思い遣りも希薄に成って、寂しい想ひをしている。故に女の人は、安易に悩みを友に打ち明ける。過去に培った豊富な経験を、良く生かして、対する相手を思い遣り、本音の付き合いが、出来ないはずは無いと、「神様、ごめんなさい」の失敗の少ない様にと、努力する日々、神様のみ前に衿をただし、祈ることに依ってすべてを委ねる事の出来る幸福を感謝して、過去の想ひを大切に過ごして往きたいと願う此の頃です。  

2008年    静江

     

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