April 8th, 2013

2013年4月7日復活後第2主日聖餐礼拝説教「あなたがたに平和があるように」”Peace Be With You”安達均牧師

牧師説教, by admin1.

ヨハネ20:19-31
復活の主、イエス・キリストの御名において、あなた方に平安がありますように!

何かが神との間に立ちふさがり、神との関係が邪魔されてしまったと思うことがあっただろうか? 
祈ろうとしても祈ることができないような。自分はクリスチャンであると思いながらも、実は疑っていて、結局は心を閉ざして、教会にも行けなくなってしまうような。自分は忙しいと思い、教会への出席を犠牲にしてしまうようなことがあっただろうか? 或いは、今、あなた方は、神との関係にあって、大きな障害をかかえているという方があるだろうか? 全能の神に疑問を抱き、その障害は、あなたに聖霊の息吹が入ってくることを妨害していると思われているようなことはないだろうか? 
本日の福音書の前半部分、まだイエスが復活した当日の日曜の夕方の光景。 ヨハネ福音書によれば、その日の朝、ペトロともう一人の弟子は、墓からイエスの遺体が取り去られているのを目撃したものの、弟子たちは、全く、主が復活したなどということは理解できないでいた。 
先週の説教でも話したように、復活の三日前の金曜は、イエスが十字架に架けられるとわかって、弟子たちは現場からは逃げてしまった。 また弟子の筆頭であるペトロは、三度も、イエスなんか知らないと言ってしまった。弟子たちは皆、自分たちも逮捕され死刑になるのではないかと恐れていた。イエスの弟子のつもりでいたが、まったくイエスの十字架刑を阻止できなかった。 恐ろしさとともに、自分たちを責め、恥さえ感じていた。 そして、イエスが墓に葬られた後は、安息日を良き理由に、部屋に閉じこもりつづけた。 
日曜になっても、ちょっとペトロともう一人の弟子が墓を見に行ったが、イエスの遺体をだれかがまた裸にして、持っていってしまったと思いすぐにまた部屋に戻り、弟子たちで部屋のドアに鍵をかけ、日曜の夕方になっても閉じこもっていた。しかし、ドアに鍵がかけられていたにもかかわらず、イエスは部屋の真ん中に現れた。 逃げていってしまった弟子たちを決して責めるようなことを言われない。 三度、イエスを否定した、ペトロにもイエスは安らかな顔を向けられる。 
そして、当時としては最悪の暴力をただ呆然と見て、キリストの十字架刑をまったく防ぎもしなかった弟子たちに、「恥を知れ。」なととは言わない。その代わりに、「あなたがたに平和があるように。」と言われる。そして、両手の釘の後、わき腹の傷を見せる。 その目的は、決して弟子たちを責めるわけではなく、弟子たちはその傷痕を見ることで、実に復活したイエスであると確認できた。 そして、イエスは今一度、「あなた方に平安があるように。」と言い、さらに「私の父である神が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わす。」と言って、聖霊の息を吹きかけられ、弟子たちに罪を赦す権能を与えられる。 
さて、本日与えられている聖書箇所を通して、神はこの礼拝堂に集まった私たちに何を語っているのだろうか? 
神なるイエス、葬られていたイエスは、生き返り、墓石を転がし、墓から出て来られた。さらに、おびえて閉じこもっていることしかできなかった弟子たちの部屋の真ん中に現れる。 そして、「あなたがたに平和があるように。」と言われる。 それと同じことが実は、今、集まっているこの礼拝堂の中で起こっている。イエスが実に復活したといっても、それが、いったいどういうことなのか、よくわからないでいる私たち。そして、キリストの体である教会を、疑い、私は、キリストはわかるけど教会はよくわからないといったりしてしまう私たち。そのような私たちに、イエスキリストの方が、私たちと教会、つまりはキリストの体、との間に存在する障害を取り除いてくださる。 そして、イエス・キリストが、私たちが閉じていると思っている心を開き、私たちの心の中に入ってきてくださる。そして、神なるイエス・キリストはご自分の傷を見せられる。
その傷とはなんだろう。 アメリカ合衆国のキリスト教会群を見るとき、昨年あたりは毎週50教会が閉じているという話だった。しかし、先週読んだ記事では、いまや、毎週70教会が閉じているという話もあり、今年中に、その数は150にも上るのではないかとも言われている。その中には、近年はじまったばかりの多くの単立教会もあれば、歴史のあるプロテスタント教会も、またカトリック教会もある。 私たちが生きている世代は、そのようなキリスト教の衰えを引き起こした世代。ここにいるすべての会衆は、キリストの体である教会に傷をつけてしまった世代に属する。
しかし、神なるイエスは、私たちを一切、非難するようなことも言わず、また、「恥を知れ。」などとも言われない。傷を負いながらも、キリストの御顔は恵みと慈しみに満ち、私たちに微笑み、「あなた方に平安があるように。父が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わす。」と話され、聖霊の息吹を私たちに吹きかけられる。 
「平安」とは漢字では、「たいら」に「安かれ」と書く。日本に育った関係上、「平安」という言葉は、この二文字が表すように、静かなイメージを持っている。 しかし、英語の辞書で、「Peace」を調べると、煩雑からの解放のような意味が出てくる。 さらに、ヘブル語で「シャローム」という言葉は、もともとの意味は、「完璧」という意味になってくる。 
私たちは、さまざまな困難や煩雑さを人生のなかで味わい、私たちひとりひとり、本当に不完全であることを認めざるを得ない。 たまに、「自分は完璧だ。」なんていう人がいるが、それは、不完全の現われ。 しかし、そのような不完全な中に、神なるイエスは、不完全さからの解放を与えてくださる。 神は、平安を与えてくださる、それは私たちの不完全さ、悲しみ、疑い、恥にもかかわらず、神がイエス・キリストによる完璧さを、もたらしてくださる。 
そして、平安をもたらすだけではなく、イエスは、聖霊をふきかけて、私たちを世に送り出す。今この礼拝堂において、私たちは、キリストからの聖霊を吹きかけられ、「神の平安があなたがたとともにあるように。そして、あなたがたを世に遣わす。」という言葉を聴いている。 今や、私たちは、神との関係を邪魔してしまうもの、悲しみ、疑い、恥から解放され。 そして、喜びを持って、復活の主、イエス・キリストの最高の知らせを伝える者として、世に送られる。 その復活の主は、すべての人々がかかえる不完全さから解放してくださり、すべての人々に平安を賜る。 アーメン

Peace Be With You
May the Peace of the Lord be with You in the name of the Risen One, Jesus Christ!
Have you ever had, in the past, any stumbling blocks that came between you and God?
Even though you still considered yourself a Christian, you doubted Jesus, and the Body of Christ, the Church. You could not even pray to Him and closed your mind to God…Have you ever had such an experience?
Or do you have stumbling blocks now? Do you have doubts? Are those stumbling blocks causing you to shut the door of your heart and not allowing the Holy Spirit to enter?
In the Gospel today, it is still Sunday. During that morning, Peter and one more disciple found the empty tomb, however, the disciples could not fully comprehend the Resurrection.
Three days prior, they ran away from their Lord, since they realized that Jesus would be arrested and crucified. The head disciple, Peter, even denied Jesus three times.
All the disciples were so fearful because they thought that they would also be arrested and sentenced to death as well; even though Jesus was their Lord, they did not do anything to prevent the Crucifixion.
They were fearful and felt shame. They kept the door closed and stayed in the room. On Saturday, there was the convenient excuse not to leave the room because it was the Sabbath.
Except for the period of time that Peter quickly went out to see the empty tomb and returned; the disciples stayed in the locked room on that late Sunday afternoon. While the disciples stayed in the room, Jesus came to the center of the room. He did not criticize the disciples that ran away when he was arrested. He looked upon Peter who denied him three times – with forgiveness.
He did not say “Shame on you,” to Peter and to those who could not and did not prevent the violence (the entirety of the Crucifixion), instead he said to them, “Peace Be With You!” and showed them his wounds on both hands and on his side. The purpose of showing his wounds was not to blame but to testify that he was indeed the risen Jesus Christ. And He said again, “Peace Be With You!” “As my father sent me, I send you.” Breathing on them with the Holy Spirit, he gave them the authority to forgive sins.

Well, what is this text telling us today?
Like when the resurrected Jesus moved the big rock at the gravesite and emerged from the tomb, he also came into the room through the locked door. While disciples were so fearful and shameful thinking that Jesus was dead, He comes offering Peace. As when you are doubting the church and not really being honest with God, He still removes stumbling blocks, those impediments between you and Christ, and Jesus comes into your heart even though you are closing your heart.
God, Jesus Christ, is showing us the wounds in the body of Christ. If we look at Christianity in the United States, according to the latest statistics, every week almost 70 congregations permanently close their doors. There are also many non-denominational, main line protestant, and catholic congregations that are closing as well. We are the generation that is allowing the decline of Christianity. All of us belong to this generation that wounded the Church, the Body of Christ.
However, God, he does not accuse us at all and, of course, he does not say “shame on us.” His face shines on us with Grace and Mercy, and he is smiling and saying, “Peace be with You! As the Father sent me, I send you.” – breathing the Holy Spirit unto us.
While preparing my sermon, I asked myself a question, what does the word “Peace” mean? In Chinese characters, Peace consists of two characters: one means “flat” and the other one means “easy.” Because of my cultural background, I have a perception that peace means, calm, like the two characters represent. I am not sure that Jesus meant flat and easy…I used an English dictionary and it said, “Freedom from distractions.” Finally, I researched the Hebrew word, “Shalom,” meaning peace. The original meaning of this word is “completion.”
It is wonderful that even though we are experiencing many kinds of distractions in our lives, God gives us freedom from them. God brings us peace: a sense of completeness despite all of our incompleteness, sorrow, doubt, and shame.
This is worth emphasizing. Not only does Jesus give us peace, but he also says “Like the Father sent me, I send you.” – breathing the Holy Spirit unto us.
Here in this sanctuary, we are receiving the Holy Spirit from Jesus Christ, and we are listening to the Word of Christ “Peace be with you…I send you.”
You are now free from all stumbling blocks, unburdened by sorrow, doubt, fear, sin, and shame. You are joyfully sent into the world to tell the good news of the risen Lord, Jesus Christ, who sets us free from all of our incompleteness and gives us peace.
Amen

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