6月13日 詩編を読もう: 深い淵の底に望みが (詩編130)
月曜には芙美さんのご主人デイビットさんの父上のお葬式があり、昨日は日本から来て結婚式を挙げたカップルがあり、その夕方には稲村ご夫妻に待望の赤ちゃん、蓮(Len)君の誕生、そして十日後には佳代子さんのメモリアルサービスを控えている。 この世の人生の始点、通過点、終点と、信仰上も重要なポイントを過ごしている方々とご家族の上に、神の祝福、励まし、慰めを祈りつつ。
今週読む詩編は130編。まずはとにかく3回読まれますように:
詩編 130編
1:【都に上る歌。】深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。
2:主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。
3:主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。
4:しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。
5:わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。
6:わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。
7:イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに/豊かな贖いも主のもとに。
8:主は、イスラエルを/すべての罪から贖ってくださる。どんなことを考えられているだろうか? ざっとポイントを書くと、1-2節は、深い淵の底というどうしようもない状況に陥っている中、主を呼び求めいる。 3-4節は主が赦してくださらない限り、いったい誰が主を敬うかという訴え。 5-6節は主を待ち望む強い意思表明。 7-8節には主が救い出してくださることの確信。
日本で、第二次世界大戦以後に形成されていった文化は、赤ちゃんが生まれて神社には行くし、また年の初めには初詣も行く。結婚式となればキリスト教会かホテルで牧師か神父にお願いして式を挙げる。さらに、亡くなったらお坊さんにお願いして葬式をしてもらう。あくまで形だけの儀式的な宗教との関わりだけ、逆に言えば宗教とはあまり深く関わらない方が良いという考え方が主流のように思う。そのような文化の中で、20世紀後半に大半の人生を送ったという世代は、宗教にはあまり深入りしないという考えを持っていて、ある意味当然だと思う。しかし、いくら、宗教と距離は置いていても、自分や家族の人生のさまざまな節目に、どうしようもない状況は訪れる。
仏教で良く言われる「生老病死」という言葉に代表されるように、それはだれにでも訪れる通過点がある。それぞれに大変さがある。生まれるときの母子の大変さ、子供達が結婚するなりして子育てを終了した時などに感じる老い、また子供がいるいないに関わらず老いていく過程でさまざまな悩みやどうしようもない不安の訪れ、またこんなに苦しい思いをするものだったのかと感じる病にもなる。そしてこの世の人生の終点はかならずだれにでもやってくる。
生きていく過程で、どうしようもない状況に追い込まれた時に、この詩編130編の言葉は、とても参考になるのではないかと思う。いくら宗教から距離を置いて生きていこうとしても、神の存在を意識することは多いにある。 そして、人間の思いに関わらず、ずっと神の方から人間を愛してくださっている。
新約聖書に記された手紙のかなりの部分は、パウロによって書かれているが、パウロもそれをよく承知していた。パウロが記したローマ人の手紙8章35節から39節の言葉も記載しておきたい。
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。「わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている」と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
詩編130編の言葉、さらにローマ信徒への手紙8章の言葉を読むことは、大いに、父なる神と子なるイエスキリストにおける希望と喜びを感じる。