July 16th, 2013

2013年7月13日LCR日本語部修養会記録     芙美Liang

活動報告, by admin1.

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今年の修養会は、7月13日土曜日の午前10時より、サンタアナの教区会堂で行われた。
講師にKenneth Dale (ケネス・デール)先生をお招きし、「神とは?」というテーマが与えられた。

司会の芙美Liangから、「神とは?」という漠然としたテーマではあるが、本日の修養会を通して、私達一人一人がそれぞれの神との関係を何らかの形で心に見えて来るような学びの一時であるように、と始めの挨拶があり、プログラムが始まった。              

始めに均先生が詩篇63章1ー9節を読み、開会の祈りがあった。その後、全員で讃美歌21, 351番「聖なる聖なる、聖なるかな」を歌い、均先生がデール先生の紹介をされた。紹介文は
修養会プログラムにも載っているが、その他にも、均先生が個人的にデール先生が45年間も
日本伝道に携わり、またその後、アメリカに帰国されてからも素晴らしい働きを続けられた事等、均先生が個人的に感じている事、またデール先生に牧師になる時の始めのインタビューを受けた事等を語られた。

午前の部のデール先生のお話し
*キリスト教の基本的問題に取り組む − 丁度今の時期が三位一体とペンテコステの季節
であるという事で、本日の修養会では、神様について考え、話しあいたいと考えている。
神の存在を思うことは、信仰の出発点で有り、終わりでもある。私達の生活の中心である神はどこに存在しているのか、その事をいつも心に留めていたい。神を求める姿勢を持つ事が、信仰の基本である真実の神は、神秘的な存在。誰も見たことがない。しかしながら、ほとんどの文化、歴史を見ても、人間はいつも、神を探し求めて来た。しかし、面白い事に、この「神」という言葉は色々に使われている事もあるので、注意しなくてはならない。良い例が、ある本からの引用だが、戦後の日本では、「キリスト」という言葉を使ってはいけないが「神」という言葉は使っても良かったと記されている。それは、どういうことだろうか? 日本文化の中で、「神」という言葉を「八百万の神」、として理解して来ている人達が沢山いる。この「神」という言葉の使い方によって、どれ程うやむやになってしまうことか。500年前に日本に「キリスト教」が入って来たとき、「神」をラテン語の「神」、デウス(Deus) 、またカトリック教会が使う「天主」と呼んでいた事も明らかである。このように、
歴史的背景から見ても、人類は常に「神」を追い求めている事は確かである。この「全能の神」を私達キリスト者がどのように考えるか。現在言われている環境保護の観点から見ても、「創造主である神」が創造されたこの地球を守ることがキリスト者として考える姿勢なのだろうが、原理主義者(Fundamentalist)的になってしまうと、絶対的概念を人に押し付けることになってしまい、それは神様の御心ではないと思う。このような事を考えていると、私達の神様は、本当に神秘的な存在である事が再確認されるようだ。神様が解って来たと思うと、まだまだ解らない事が沢山出て来る。
本当に神様は神秘的で、もし完全に解ってしまえば、それは神様ではなくなってしまうだろう。

さて、ここで、神様の本質を理解する為にいろいろ考えてみたい。
先ず始めに他の宗教には無いのが「三位一体」である。

** 三位一体 − この事をどう理解するか。三位は、英語では three persons である。という事は、3つの異なるものから1つとなっている。1つは「父なる神」、2つは「神様の子として人間の姿で表われたイエス」、3つは「霊なる神−聖霊」である。説明すると、1つは「創造主」、2つは
「救い主」、3つは「いつも私達と共にいる存在」である。これが三位一体の神と呼ばれる。

** 神の概念を明確にするために大切な4つの言葉
1.Hidden God 神の存在は常に比喩を使って表現されているように (「光」であるとか)
 大切な部分は常に隠されている。
 Monothieism:一神論 ただ唯一の神、旧約聖書が一番偶像崇拝を否定し、一神論をはっき
 り述べ伝えている。
 Panentheism- 万有内在神論。全ての物に神が存在するという考え。
 Pantheism – 汎神論。 地球が神の身体、宇宙全体が神の身体という考え。

2.Revealed God: 顕されている神。キリストは人間の身体で人類の目の前に現れた。
 これはどういうことか?それはキリストが私達の知りうる所だけを示して下さったという事である。 
 それは神の本質であり、哀れみであり、愛である。一番大切なのは、「十字架の愛」である。
 なぜならそれは自己犠牲の愛だからである。ここで考えてみたい現在の問題は、キリスト教が
 どのように他の宗教と交わっていくかということである。このイエス様が身を以て示して下さった
 「十字架の愛」は、キリスト教だけのものか、他宗教の人々にも示されているのか、考えてみよう。

3. Transcendence God: 超越する神、万能の神。詩篇40章12-17を読む。
 宇宙を創造された偉大なる神を私達は解らない。人間の理性の力をはるかに超える小さな力  
 が、宇宙を作っている。 現在、一番小さな分子と呼ばれているのがGod Particle (神の粒子)。 
 神秘に包まれた、超越する神に、沈黙を持って従う。神の超越する力は、常に何らかの形でこ 
 の世の中で働いている。イザヤ書40: 28-31を読む。
 しかし、この「超越する神」が存在するのなら、歴史も神が支配するはずであるのに、何故歴史  
 上で様々な悲惨な出来事が起こったのか。また、全能の神が愛の神であれば、何故津波等の
 悲しい出来事が起こるのか? 悲劇が起こるのは神がいないからと思う人がいる。
 デール先生の答えは、神様は私達の日々の生活の全てをコントロールされてはいない。この世
 で自然に起きる悲劇は神のみ言葉とは関係無しに必ず起きる。では何故信仰を持つのか、
 それは、神の霊は心の中で必ず働いていて、必ず共にいて助けて下さるからなのである。これ
 は十字架の神学である。正にイエス様は十字架にかけられるという悲劇の中で、神様は決して
 イエス様を見捨てた訳ではない。起こった悲しみに耐えることによりそこから忍耐が生まれ、
 希望が与えられる。

4. Immanence-内在する神ー聖霊。 内在ということと、自分の感情を決して一緒にしてはいけな
 いが、神が常に自分の内に一緒にいる存在であること。 あり得ないところに神は存在する。 
 神が人格を持っているとすれば、父なる神であるから、親子関係のように自分と親しい存在。

 この神秘的「神」を私達は崇めるべきである。

デール先生のお話の後、全員が中庭で記念写真を撮り、小休憩の後、グループ別の話し合が
始まった。約45分に亘り、プログラムの4ページに書かれてある質問参考項目に沿って話し合ったグループもあり、項目には沿わなくても、「神とは?」のテーマで話し合ったグループもあった。それぞれのグループの話し合いが終わったあと、昼食と交わりの時を迎えた。交わりの時に
自己紹介をし、その後ラッフルティケットが行われた。

午後の部修養会
*信仰の新しい表現法
デール先生は、午前中はあまりに「言葉、言葉」の修養会だったので、午後からは言葉を使わないで、どのように信仰を表現するか、を様々な形で示して下さった。
Verbal- 言葉による。
Non-verbal−言葉無しのcommunication. もっとも大切な事は、神様の愛を行動で示す事である。
** 太極拳: 全員が立って、デール先生の行う太極拳の呼吸をしてみる。この時に感じる事は、
祈りの境地。深く息を吸いながら手を上に挙げて行きながら神を讃美する境地になる。手を前にあわせて上に挙げて行くときは感謝の気持ちになる、等、身体で信仰の表現ができる。
** 芸術: デール先生の描かれた絵から、何を感じるか? 個展を間近に控えたデール先生が、ご自分の幾つかの作品を用いて、皆さんに何を感じるか、感想を聞かれた。

この後、各グループの報告があった。それぞれの報告書は、日本語部のオフィスにファイルされる。 とても有意義な話し合いがそれぞれのグループで出来た事が、リーダーの報告からよく
理解された。

** 音楽: グループ別の報告の後、デール先生が最後に音楽を用いての信仰の表現として、
ジャズ風にアレンジされた讃美歌の幾つかをピアノで弾かれた。

最後に閉会礼拝の中で、均先生が詩篇の19章1節から10節まで読まれ、「神とは?」のテーマで短くメッセージを語られた。その後全員で最後の讃美歌「輝く日をあおぐとき」を歌い、デール先生の閉会の祈りによって、修養会は幕締めとなった。

修養会を終えて感じたことは、先ず内容が盛りだくさんだったという事だ。論理あり、歴史あり、芸術あり、様々な角度から私達はこの「神とは?」というテーマにチャレンジする事ができたと思う。
86歳のデール先生が、私達の修養会の為に、時間をかけて準備をされ、遠くから運転して来て下さった事は、私達にとって大きな恵みである。先生がおっしゃったように、「神とは?」の答えがはっきりと定義づけられる事は決してない。私達の神様は神秘であり、私達が理解できたと思った途端に、理解できない事がまた現れて来る。だからクリスチャンは一生その答えを求めて行く者とならなければいけない。先生は自ら「求道者」として私達の前に立たれた。私は、先生のそんな姿から、言葉にならない教えを頂く事ができた幸いに心から感謝している。先生から溢れ出る「求道者たる姿勢」が、私達に「求道者」として生きる事こそ、神様が私達一人一人に望まれている事なのだ、と無言で語りかけていた。                            芙美 Liang 記録

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