今週読む詩編は15編。5節だけの短い詩編。まずは声に出して読んでみよう。
詩編 15 編
1:【賛歌。ダビデの詩。】主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。
2:それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり
3:舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
4:主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。
5:金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。
どのような感想をお持ちだろうか? ご自分の生活や行動基準に何か影響を与えることが出てくるだろうか? 短いので、一節一節、解説を書いていきたいと思うが、その前に2点ほど記しておきたい。
1) 私はこの詩編を読んで、子供の時に正教会の礼拝堂に入る時のことを思い出している。子供ながら、必ず、礼拝堂に入る前には、胸の前で十字架を切って入っていた。
2) この詩編は、あくまで、当時のユダヤ教の話であり、しかも、当時の時代背景を理解する必要を感じる。
さて、この2点を書いた上で、15編にはどのようなことが書いてあったかふり返ろう。
1節に描かれていることは、この詩編がイスラエルの神殿に巡礼に来た人々の典礼歌ともいうべきもので、巡礼者の問いかけが1節に書かれている。 それは、神殿の主に、いったいどのような者がイスラエルの神殿に入ることができるのでしょうか? という入場資格を質問している。
2節以下に、その入場資格が書かれている。 5節の前半までが、入場資格だが、2節と4節にそれぞれ、包括的な倫理規定とも言える言葉が書かれていて、3節と5節前半に、具体的な行動規定とも言える言葉が書かれている。
2節には、完全な道を歩き、正しいことを行い、心には真実の言葉がある人と書いてあるが、とても抽象的な表現。ともすると完璧な人格者だけが神殿に入れるのかと思われるかもしれないが、たぶん人格者とか道徳的な面で完璧な人という意味ではないようだ。問いかけ自体が、神殿の主体たる神への問いかけであり、神との関係をしっかり保って、人生を歩み、行動し、語るような人と理解したらよいかと思う。
3節では、2節に書かれていた内容の具体例が書かれている。その内容は、神との関係をしっかり保つがゆえに、隣人との関係も大切にすることが書かれているように思う。具体的には、うっかり舌をすべらせて隣人を傷つけたりせず、親しい人なのにその人のことを軽蔑し悪い噂がたってしまうようなことを言って災いをもたらすようなことをしない人。
4節ではまた抽象的な表現になってくるが、やはり2節にあったように、神との関係に重きが置かれている。 主の目から見て正しくないとされるものをしりぞけ、主を畏れる人を尊び、そして、神との関係を無視して悪い事をしない人。
5節では、また、人間関係に戻って、より具体的な行動基準になっている。お金を貸しても利息をとらないということが書かれているが、当時のユダヤ社会では、そもそもお金を貸して利息をとることが禁じられていた背景がある。ポイントは、貧困者の困窮を利用して己の利を得るような行為はしない人。また、賄賂を受け取ることは、高い地位にあるものがそれを乱用することで社会が乱れることであり、そのような事はしない人。 そして、5節後半に書かれている結びは、このような人は動揺せず人生に破局が来ることなく、また礼拝堂に入るのにふさわしい人ということになるのだろう。
さて、どのようなことを思われるだろうか? これらのことはとても意味のあることであり、とくに3節に書かれている内容などは、私たちの生活で特に律するべきことのように思う。 しかし、かといって、この詩編15編に書かれていた内容に、完全に従っているという人は現実問題、いないのではないかとも思う。だからこそ、礼拝堂に入る前の心構えとして、心の中で十字架を切って神の赦しを乞い、礼拝堂に一歩二歩と、主を畏れつつ入って行く気持ちが大切だと思う。
最後にイエスの言葉を書いておきたい。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」 マタイ11:28より