7月25日 詩編を読もう:心を尽くして 感謝 (詩編138) 牧師:安達均
今週読む詩編は138編。比較的短いので、読む時間があれば3回ほど読んでみよう。あるいは、毎日一回づつ3日間で3回読むのも良いと思う。
1:【ダビデの詩。】わたしは心を尽くして感謝し/神の御前でほめ歌をうたいます。
2:聖なる神殿に向かってひれ伏し/あなたの慈しみとまことのゆえに/御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさって/あなたは仰せを大いなるものとされました。
3:呼び求めるわたしに答え/あなたは魂に力を与え/解き放ってくださいました。
4:地上の王は皆、あなたに感謝をささげます。あなたの口から出る仰せを彼らは聞きました。
5:主の道について彼らは歌うでしょう/主の大いなる栄光を。
6:主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。
7:わたしが苦難の中を歩いているときにも/敵の怒りに遭っているときにも/わたしに命を得させてください。御手を遣わし、右の御手でお救いください。
8:主はわたしのために/すべてを成し遂げてくださいます。主よ、あなたの慈しみが/とこしえにありますように。御手の業をどうか放さないでください。
1-3節、4-6節、そして7-8節の3箇所に分けて、それぞれポイントとなることを書いていきたい。
1-3節-心を尽くして感謝:1節にまず、「心を尽くして感謝して神の御前でほめ歌をうたいます」という詩編作者のこの詩を詠い始めるにあたっての神への意思表示が書かれている。この1節の言葉、ヘブル語では、「神々の前で」という複数形の言葉が入っていて、人々が拝んでいる他の神々もいっしょに含まれていて、さらに、詩編作者が信仰している対象である神が別格でおられるようなイメージが浮かんでくる。2節に入っても「御名に感謝」となって感謝という言葉が再び登場し、また「すべての御名にまさって」という表現もあり、そこには、1節に続いて「他の神々にまさって」というイメージが伝わってくる。 さらに3節では、感謝する理由として、神が自分の呼び求めに応じ、魂に力を与え、さらに解き放ってくださったことが書かれている。
グローバルな神: 4-6節は、その構成は1-3節を引き継いでいて、「神への感謝」の意思が4節にも書かれているが、主語は詩編作者だけが感謝するのではなく、地上の王すべてとなり、その時点では他の多くの神々に奉仕している者も含めて感謝をささげるという将来のグローバルなイメージを表現しているのではないだろうか。5節では、やや具体的にすべての地上の王がどのように感謝の歌を詠うのか、また6節ではやはり感謝を捧げる理由が書かれている。
二種類の祈願:7-8節は願い事の祈りになってくる。7節では「苦難の中にある時でも、私を救い出して命を得させてください。」とあり、自分がそうなって欲しいと思う内容の祈願。しかし8節に入って、主体が自分から主に移って、主の思いが遂行され、主の慈しみ・業が永遠に続くようにという祈りになってくる。
さて、短い138編のいくつかのポイントを書いてみたが、さまざまな思いを皆さん思い巡らしておられるのではないだろうか? 以下にさらに二点ほど私の感想を書いておきたい。
1) 日本語の聖書では表現されておらず残念だが、ヘブル語や英語では1節に出てくる「神々の前で」という複数形の言葉が興味深い。詩編作者が神々を拝んでしまう人々に対する裁きを書くのではなく、尊敬の念が現われているように思う。この旧約聖書を聖典としているイスラム教もユダヤ教もキリスト教も一神教だが、その一人の神は、人々が抱き、拝んでしまう神々の存在を、十分理解しておられるように思う。
2) 5節の「主の道」という言葉の中に、イエス・キリストが十字架に向かって歩まれる道を思いだしている。そして、7節8節の二つの祈りは、ゲッセマネでのイエスの祈り「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイ26:39より) と共通しているように思う。
28日の日曜に与えられている聖書の箇所は、ルカ11章の主の祈りの箇所。私たちは、自分にしてみればこのようになって欲しいという「何々してください。」とか「このような状態になりますように。」という具体的な内容を祈る。それはそれで良い事だと思うが、しかし、「御心が天になるごとく地にもなさせ給え。」という祈りを常に覚えていると良い。自分の思い通りにはならなくても、自分の思っていたことよりももっと良いものを、主は与えてくださる。