8月8日 詩編を読もう:主を畏れる人 (詩編33:12-22) 牧師:安達均
今週読む詩編は33編の12節から22節。時間があれば3回ほど読んでみよう。そして、気になった語句や節、さらにこの詩編が自分に何を語っているか、また、自分の所属しているコミュニティに何を語っているか、思いを巡らせていただきたい。
詩編 / 33編
12: いかに幸いなことか/主を神とする国/主が嗣業として選ばれた民は。
13:主は天から見渡し/人の子らをひとりひとり御覧になり
14:御座を置かれた所から/地に住むすべての人に目を留められる。
15:人の心をすべて造られた主は/彼らの業をことごとく見分けられる。
16:王の勝利は兵の数によらず/勇士を救うのも力の強さではない。
17:馬は勝利をもたらすものとはならず/兵の数によって救われるのでもない。
18:見よ、主は御目を注がれる/主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
19:彼らの魂を死から救い/飢えから救い、命を得させてくださる。
20:我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。
21:我らの心は喜び/聖なる御名に依り頼む。
22:主よ、あなたの慈しみが/我らの上にあるように/主を待ち望む我らの上に。
7月29日にロサンゼルス空港を立ち、1週間半かけて日本に行っていた。二日づつ妻の実家と私の実家を訪問し、最後の三日は東北へ向かい、東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた岩手県三陸海岸中央部の釜石市、山田町、宮古市、田老地区を訪ねた。大震災を経験した方々から、地震がおきたら丘に逃げるという防災のための基本的な話を聞いた。その基本を聞く度に、美しい自然に感謝しつつも、自然の脅威を知り、自然を畏れて生活することの大切さを覚えた。また「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)という言葉を何度も思い浮かべた。
カリフォルニアに戻って、最初に与えられた上記の詩編箇所の18節には「主を畏れる人」という言葉があり、今日の詩編箇所を数回読むなかで、この「主を畏れる人」という言葉がどんどん迫ってきた。 詩編記者は、「主を畏れる人」について、どのように語っているのかという質問に答えるべく、感じたことを、以下記していきたい。
12節は、主を神とする人々の幸せが述べられている。「嗣業」というむずかしい言葉が使われているが、主の宝を代々受け継いでいく民のすばらしさが述べられているように思う。
13節から18節には、主が、この地球上に住んでいるすべての人々(14節)をいかに見ておられるかが詠われている。人の心も含めて、すべて主が造られた(15節)のであり、創造主がすべての人を見分けておられる(16節)。 17節18節は戦いの勝利について書かれているが、これは現代の私たちには比喩で、人間の幸せ、あるいは人生の勝利は、結婚して子供がいるかどうかとか、財産の多さ、立派な家に住んでいるかどうかなどに左右されるものではないと教えられているように思う。そして、問題の18節になるが、「主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人」を主は特に注意して見ておられる。言葉を変えて言えば、主を畏れているか、主の慈しみを待ち望んでいるかどうかを、主が見てくださっていて、そして、19節にあるように、そのような人々の魂を死と飢えから救い、命を与えてくださっている。
20節から22節は、この詩編のしめくくりで、そのように見てくださっている主を待ち望む、つまり紀元前にあっては救い主の降誕を待ち望むことであり、現代にあっては、いつも聖霊がいっしょに居てくださっていることを知ってイエスの再臨を待ち望むことで、主が盾となって助けとなってくださり(20節)、主に寄り頼むことで、私たちは大いに喜びに満ちた人生を歩む(21節)。そして22節の祈りの言葉をもって、詩編は終わっている。
上記、12節で嗣業を説明するところで書いた、「主の宝を代々受け継ぐ」とはどういうことかさらに考えたい。 私は田老地区の大震災の被害は、堤防が崩れたこともあり、とてもひどかったという感覚を持っていた。 しかし、今回現地に出向いて、実際にそこにいた人々と話し、また資料を見せていただく中で、今回の死者は、明治29年や昭和8年の大地震による大津波の時より、はるかに少ない人数で済んでいたこを知った。そこには、「大地震が起きたらすぐに丘に逃げる。」という知恵、知識が、過去に起っていた津波の経験から、代々受け継がれていて、田老地区に住んでいた方々にかなり浸透していたことを知った。 そこには、知恵の伝承があった。それは、知恵が宝であり、その知恵の根本は、自然への畏怖、主を畏れることが宝。この地球上、どこに住んでいても、さまざまな自然災害に遭遇する可能性がある。カリフォルニアでは山火事が各地で起こっているが、どのような地域に住もうが、主を畏れる事を代々伝承しよう。