今週読む詩編は103編の最初の8節。神の愛を詠ったすばらしい讃美だと思う。時間の許す限り3回でも5回でも読まれたら良いかと思う。
詩編 / 103編
1: 【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。
2:わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
3:主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し
4:命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
5:長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。
6:主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる。
7:主は御自分の道をモーセに/御業をイスラエルの子らに示された。
8:主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。
この詩編を読み、どんなことに思いを巡らせておられるだろうか。気になる言葉は何だったか? 自分に何を語りかけられたか? またコミュニティに何を語りかけられているか?
私は、1節と2節にある「たたえよ」という命令形の言葉が気になった。3-5節の部分は自分に語りかけられる言葉と感じた。6-8節は、人類全体というコミュニティに向かって語られているような気がした。 そこで、1-2節、3-5節、6-8節に分けて、それぞれ思いつくことを書いておきたい。
1節、2節ともに「わたしの魂よ、主をたたえよ。」という言葉からはじまっている。 繰り返されることで、「主をたたえよ」という強い命令のように感じる。 それは、詩編作者、ダビデが自分の体験から自分自身に言っているようでもあり、この詩編を読むものすべてが自分で自分に、「わたしの魂よ」と呼びかけ、「主をたたえるように」命令しているようでもある。それも、ただたたえるのではなく、全身をもって(1節後半)、また、主が計らってくださったことを何ひとつ忘れることなく(2節後半)たたえるように。 命令する以上は、その理由が書かれているのかと思い、続きを読んでいくと、3節以降は、やはり「主をたたえる」理由が見事にうたわれている。
3節から5節は、「主はお前の」という言葉ではじまっていて、主と自分の関係の中で、主が直接、自分にしてくださるすばらしい御業が書かれている。「赦し」、「癒し」、「購い出し」、「冠を授け」、「満ち足らせ」、「新たにし」という主が自分にしてくださる動詞が6つ出てきている。 まさに神の行い、御業。主の愛が自分を包括してくださっているようでもある。
6-8節は、コミュニティについて詠っているように感じる。 6節では、虐げられている人々へ、つまり、コミュニティのなかで、騙(だま)す人々と騙されている人々に対して、主の裁きと恵みの御業を行ってくださる。 7節では、歴史的に起こったひとつの例として、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民に対して、そのリーダであるモーセにイスラエルへ帰還できるようにその道を示し、そして、イスラエルの民、一人一人にも、主の御業を示された事実を短く詠っている。そして8節で主の慈しみが、いかに大きいかを詠っている。
最後に「慈しみ」という言葉について触れておきたい。 本日の詩編の4節と8節に出てきたし、実は、今日の詩編の9節以降を読んでいくと、11節と17節にも出てくる。 聖書を読んでいて、あるいは、キリスト教の牧師や神父たちの説教、メッセージ等々を聴いていて、「慈しみ」という言葉はよく使われる。 キリスト教ばかりではなく、仏教でも。 そもそも、「慈しみ」というのは、仏教の言葉だった。 ポルトガル語、ラテン語、英語などでキリスト教が日本に入ってきて、神の大きな愛の表現方法として、ぴったりあてはまる日本語として、仏教で使われていた「慈しみ」が近いということになったのだと思う。 しかし、この日本語に訳された「慈しみ」という言葉は、詩編が書かれたヘブル語では、そもそも何という言葉なのだろうか?
ヘブル語の詩編では、”rebem” (ヘブル語は文字が違うが、ヘブル文字をアルファベットで表記した)という言葉が使われている。 そして、この言葉はそもそも、英語でいう”womb”、母の胎、子宮のこと。 そこで、神の「慈しみ」のイメージとして、母が子宮の子に愛情を注いでいるところを思っていただければ良いのかと思う。
復活ルーテル教会に集まる人々、特に病の中にあり困難の中にある方々、そして、地球上のすべての人々に、神の慈しみが豊かにありますように。
主を賛美しつつ。