September 12th, 2013

2013年9月12日 詩編を読もう:的外れなこと (詩編51:1-12) 牧師:安達均

詩編を読もう, by admin1.

詩編を読もう:的外れなこと (詩編51:1-12)
今週読む詩編は51編の1-12節。1節と2節にこの詩編の背景が書かれている。ダビデとバト・シェバのことはサムエル記下11章に記録されていて、また預言者ナタンがダビデのものに来たときの事はサムエル記下12章に記録されているので、時間の許す方は、それらを読んで、詩編51編を読まれると良い。 しかし、その背景がわからなくても、この詩編51編 読むことは、とても意味があるので、いずれにしろ3節から12節までを、何回か読むことはお勧めしたい。 

詩編 / 51編
1: 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
2:ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】
3:神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。
4:わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。
5:あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
6:あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
7:わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。
8:あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
9:ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。
10:喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
11:わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。
12:神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。

ダビデとバト・シェバの話は興味深い話だが、ダビデは王であり、またその行為は王という権力があるから実行できたことであり、この詩編51編を読むことは、「自分はダビデのような罪を犯せる立場にもないわけで、自分にとって関係の無い話」として読んでしまうかもしれない。しかし、私はこの詩編は「他山の石」、つまり、自分の反省や修養に役立つ面は多いにあると思う。

与えられている詩編箇所は、過ちを犯し、自分の罪をみとめ、自分のやましさや恥ずかしさに悩む時、神に罪の赦しを請い、新たな希望が与えられることを願って読む箇所として、すばらしい箇所だと思う。と言っても、罪という言葉、あるいは「罪人(つみびと)」という言葉が日本語でイメージした時、とかく、「犯罪」とか「犯罪人」というようなイメージで解釈されてしまい、自分は警察に捕まったことはなく、「自分は罪人ではない」として、詩編の51編も、そのほか聖書でいろいろなところで語られる「罪人」の話も自分には関係が無いと思われてしまうかもしれない。 

そこで、聖書に書かれている「罪」という言葉について、詩編51編の3節と4節に書かれた言葉を掘り下げて、考えてみたい。 日本語では、「背きの罪」「咎」そして単に「罪」という三種類の言葉が使われているが、それぞれの原語の意味を以下に書く。 

最初の「背きの罪」という言葉は、ヘブル語の原語では、子供たちが親に向かって反抗するような時に使われる言葉。 それは、親がどんなに子供を愛していても、それに甘え、また親の苦労も理解せずに、親に背を向け反抗するような態度を思っていただければ良いかと思う。次の「咎」と訳された言葉には、曲がった状態とか、いらいらしている状態を現る言葉が使われている。 そこには、おろかな行いをしてしまい、腰を曲げ、身を屈めて、深くうなだれているような状況が思い浮かぶ。 そして、最後のただ「罪」と訳されている言葉は、詩編51編の中だけでも、4節以外に、5節、6節、7節、10節、15節にも出てきているが、ヘブル語の本来の意味は、「的を外している」という意味がある。 

これらの言葉から「罪」あるいは「罪人」について考えると、刑法に違反したかしないか、あるいは警察に捕まるか捕まらないか等には関係無く、私たち人間を創造された神の思いとは違った行為や、神の目から見て的外れなことをしてしまい、身を屈めてうなだれているような状態を思い浮かべる。 

聖書で語られている罪は、実はこの世に生まれたすべての人間に当てはまっているのだと思う。12節の言葉にあるように、神が私たちに清い心を創造してくださるように祈りつつ。 アーメン 

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