今週読む詩編は146編。いつものように3回読まれることをお勧めしたい。
1:ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。
2:命のある限り、わたしは主を賛美し/長らえる限り/わたしの神にほめ歌をうたおう。
3:君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。
4:霊が人間を去れば/人間は自分の属する土に帰り/その日、彼の思いも滅びる。
5:いかに幸いなことか/ヤコブの神を助けと頼み/主なるその神を待ち望む人
6:天地を造り/海とその中にあるすべてのものを造られた神を。
とこしえにまことを守られる主は
7:虐げられている人のために裁きをし/飢えている人にパンをお与えになる。主は捕われ人を解き放ち
8:主は見えない人の目を開き/主はうずくまっている人を起こされる。主は従う人を愛し
9:主は寄留の民を守り/みなしごとやもめを励まされる。しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる。
10:主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。
先週与えられていた詩編は113編はハレルヤに始まり、ハレルヤに終わる詩編だった。 今週も同じようにハレルヤに始まり、ハレルヤに終わる詩編。 実は、詩編146編以降は、最後の150編まで、すべてハレルヤに始まり、ハレルヤに終わる詩編となる。 150ある詩編の結論は、「ハレルヤ」(主を賛美せよ)とも言える。
最後の5つの詩編の最初、146編について、1-2節、3-6節前半、さらに6節後半から10節までに分けて、以下、思ったことを書いておきたい。
1-2節: 私もみんなも主を賛美せよ
1節では、一見、「わたしの魂よ」という言葉の中に、詩編作者個人が自分自身に「主を賛美するように」呼びかけているかのように読めるが、2編を読み、さらに3編以降に移っていくとき、決して詩編作者個人で賛美するのではなく、自分の属するコミュニティ、ひいては人類全体へ「主を賛美せよ」と呼びかけているように思える。
3節-6節前半: 誰を頼るか
君候、昔の中近東やヨーロッパの文化で言うなら領主、日本なら大名に相当するような人々、つまり一般市民を支配する立場にあるような人々に頼っても、所詮彼等は人間であり、死が訪れてしまい、頼り続けることはできない。 だから、主なる神に頼る人々は幸福である。 その主なる神は、大昔に天と地と海を造られた方であり、また、現在もそこに住むものすべてを造り続けておられる方。
6節後半-10節: 貧困の中にある方々を憐れむ主
すべてを創造された主なる神は、虐げられている人々、飢えている人々、捕囚されている人々、目の見えない人々、うずくまっている人々を憐れんで行動を起こしてくださる。 主に従う人々を愛し、孤児や未亡人も励ます。 そして、主に従わないものは、その歩みをひっくり返してしまう。 主なる神は、代々永遠に続く王。 だから主を賛美しよう。
「今をどう生きるか」
9月29日の日曜日に与えられている聖書の箇所はルカ福音書16章にある金持ちとラザロの話。 金持ちとラザロが、死後に行く天国では、立場が逆転してしまうような譬えをイエスは話されている。 その話は、私達の死後の世界への予言というより、現実社会で富める層と貧困層との間に大変な格差がある現実のなかで、私達がどう生きるかを問いかけているのだと思う。 そして、今週、いっしょに与えられている、詩編146編に関しても、ただ昔に詠われた詩編を読んで鑑賞するというのではなく、21世紀を生きる私達に、「今どう生きるか」を問いかけているように思える。 表題に書いたように「主に頼り、主を賛美して」生きることはもちろんだが、主に頼り主を賛美する中で、さらに、私達ひとりひとりにできることをするように、主が行動へと導かれる。
復活ルーテル教会の中で、さまざなな困難にある方々のことを覚えるとともに、ホームレスの方々、またホームレスではないものの、日々の食料に困っている経済的な困窮の中にある方々の上に主の憐れみを祈り、また教会につながる者が、つまり主イエス・キリストの体である教会が、さらなる行動を起こし続けることができますように。