今週読む詩編は37編の1節から9節。いつものように3回読み、一回目は気になった言葉、二回目は神が自分に何を語りかけているか、三回目は神がコミュニティに何を語りかけているか、思いをめぐらせよう。
1:【ダビデの詩。】悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな。
2:彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。
3:主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
4:主に自らをゆだねよ/主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
5:あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい
6:あなたの正しさを光のように/あなたのための裁きを/真昼の光のように輝かせてくださる。
7:沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や/悪だくみをする者のことでいら立つな。
8:怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。
9:悪事を謀る者は断たれ/主に望みをおく人は、地を継ぐ。三回読み、それぞれ、どのようなことに思いを巡らせておられるだか?
私の場合は、とにかく「ゆだねよ」という言葉に強く引かれている。そして、どのような困難があろうが、真剣に「主にゆだねる」生活をするように。 それは主にゆだねて何もしないという事ではなく、同じコミュニティに住む人々にも、「主にゆだねて」生きるように呼びかけるように、神が語りかけてくださっているように思える。
今週はじめ、アメリカ福音ルーテル教会の一教会としてこの南カリフォルニアで中国語伝道をしている牧師と話していた。設立して10年も立っていないその中
国語伝道の教会は、はじめの数年で、中国本土からはもちろん、台湾、香港、フィリピン、マレーシアなど東南アジア諸国からアメリカに移住してくる方々の波に乗り、すぐに100人以上の会員数となった。 二世代目の子供たちへのミニストリーのため英語での伝道者も与えられ、恵まれた礼拝堂のスペースも確保されていて、まだまだ、伸びても良い状況にある。 ところが、その教会の近くで、どこの宗派にも属しませんという中国語の教会がはじまり、そのリーダは、「アメリカ福音ルーテル教会のその中国語伝道の教会は、低所得者層を集めている教会だから、その教会には行かず、私の教会にいらっしゃい。」というようなうわさを立てていることが伝わってきた。 私はそのアメリカ福音ルーテル教会の牧師と話しあったことは、まさに、この詩編97編に詠われていることだった。 決してその単立教会のリーダのことを非難したりいらだつことなく、主を信頼して、主にゆだねて伝道を続けていきましょうという事だった。
「ゆだねる」ということは、信仰のキーワードだと思う。それは自分で怒りを覚えていらだって裁いたりすることなく、すべて主にゆだねて生きること。 しかし、ゆだねた結果、何もしないということではない。 聖霊の働きによりますます、宣教と社会奉仕に燃え、そしてイエスキリストの体の一部である教会形成の働きへと導かれる。 それは、聖霊の働きにより、逆に、主が信仰者にゆ
だね、主イエスキリストの働きを成すものとされるような面がある。10月6日の聖日礼拝の御言葉の歌(讃美歌21-564)は、まさにそのことを歌っていると思うので、その歌詞を最後に書いておく。
1.イェスは委ねられる、伝道のみわざ、
「神のことば伝え、病をいやせ」。
あかしのつとめに 赴く群れに
主よ、今、与えたまえ、聖霊の力を。
2.イェスは集められる、ひとつの民に。
「授けよ、バプテスマ。教えそだてよ」。
共に生かされて つかえる群れに
主よ、今、与えたまえ、聖霊の力を。
3.イェスは遣わされる、地のはてまでも。
主は共におられる、世の終わりまで。
恐れを乗り越え 旅行く群れに
主よ、今、与えたまえ、聖霊の力を。
様々な状況に置かれている皆様が、主にゆだねる生活をいとなみ、豊かな聖霊の
力が働いて、主イエス・キリストのゆだねがありますように。 アーメン。