今週読む詩編は111編。 いつものように、3回読んで、気になった言葉は何だったか? 自分に何を語りかけられたか? またコミュニティに何を語りかけられているか? そのような質問に思いを巡らせてみてはどうだろうか。
詩編 / 111編
1:ハレルヤ。わたしは心を尽くして主に感謝をささげる/正しい人々の集い、会衆の中で。
2:主の御業は大きく/それを愛する人は皆、それを尋ね求める。
3:主の成し遂げられることは栄え輝き/恵みの御業は永遠に続く。
4:主は驚くべき御業を記念するよう定められた。主は恵み深く憐れみに富み
5:主を畏れる人に糧を与え/契約をとこしえに御心に留め
6:御業の力を御自分の民に示し/諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる。
7:御手の業はまことの裁き/主の命令はすべて真実
8:世々限りなく堅固に/まことをもって、まっすぐに行われる。
9:主は御自分の民に贖いを送り/契約をとこしえのものと定められた。御名は畏れ敬うべき聖なる御名。
10:主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く。
皆さんは、どんなことに思いを巡らせておられるだろうか。いつもの三つの質問に対して、私が思いを巡らせたことをシェアしたい。
気になる言葉は何だったか? 詩編111編と112編の構成
特定の言葉ではないが、私は構成が気になっている。111編の次の詩編112編を8月29日に読んだが、その詩編との構成が実に似ている。 112編を読んだ時にも気になったが、その時はあえて書かなかったので、今回書いておきたい。 111編と112編の二編で一組を成すような詩編だと思う。どちらも最初の「ハレルヤ」という「主を賛美せよ」という意味の言葉で始まっている。 112編では、1節で「いかに幸いなことか」という言葉で始まって、112編全体は人が幸せな理由は何かが書かれ、全体的には「人間」が動詞の主語になる詩になっている。 111編では、1節で詩編作者が「主に感謝」をささげると同時に、人々の群れのなかで、会衆とともに感謝をするという言葉が述べられたあと、主に感謝をささげる理由は何か、つまり主なる神が何をしてくださっているかという内容になって来て、全体的には、「主」が動詞の主語になる詩になっている。詩編には、このように、構成面でよく考慮されたものがあり、ヘブル語の言葉の遊びのような詩では日本語では楽しめないが、111編と112編のような構成を楽しむことは、日本語に訳されたものでも可能である。
自分に何を語りかけられたか? 「主を畏れるしかない」
112編を読んだときに、「主を畏れる人が幸せ」という事を書いたが、「主を畏れる」というテーマは、111編から続いており、また、聖書全体のなかでも、とても大切なテーマ。 箴言1章7節に「主を畏れることが知恵の初め」という言葉があったが、今日の詩編111編の10節にも同じことが詠われていて、人間の教育の点でも実は基本中の基本なのだと思う。 そして、「主を畏れる」と言う時の「畏れる」という動詞の主語は、人間だが、よくよく考えると、主なる神が人間を「主を畏れる」しかないように導いてくださっている。 つまり、いくら人間が畏れるという動詞の主語であっても、もともとは、神が働いて、そのようにしてくださっている面がある。
コミュニティに何を語りかけているか? 神の恵み
「主を畏れるしかない」ように神が導いていると書いたが、そのようになる具体例として、神がいかに驚くべき恵みの御業をわたしたち人間に成し遂げてくださっているかが、今日の詩編の2節から9節に詠われているように思う。よく歌われる讃美歌に「数えてみよう主の恵み」があるが、 つまり、コミュニティ全体で、神の恵みがいかに驚くべきもので豊かに与えられているかに気がつくとき、その神を畏れずにはいられなくなり、そして、一節にあったように、人間全体で感謝を捧げるということが、自然発生的に起こってくるように思う。
東日本大震災で多くの漁村が犠牲になったが、2ヶ月前に日本に行った時にその地域に住んでいる方々の話を聞き、また婦人の友に連載されていた漁村での助け合いの記事を読んだ。魚を獲るにしろ、わかめなど海藻類を育て収穫し販売するにしろ、海にある神の創造の恵みは測り知れない。その海が急変することもある。それは潮の具合により、収穫量が大きく変わったり、今回の津波のような大打撃を被ることもある。漁村の方々の中に、いかに自然を畏れ敬うかが大切といわれる方々が多いということがわかった。 また、それに気がついているからこそ、いろいろなお祭りがあり、それらのお祭りを通して、神に感謝することが多いのかと思う。キリスト教会の礼拝においても、神を賛美し神に感謝するという大きなポイントがある。だから、お祭り的な要素も自然に発生してくる。 安達 均