(旅行中、パソコンの調子が悪くなり掲載が遅れましたことお詫びします。)
今週読む詩編は17編。二回は読みたいと思う。一回目はこの詩編を、今週も、まず「窓」にたとえて読んだ場合、つまり約三千年前のダビデの時代の様子を窓を通して見るような感覚で、どのような光景が思い浮かんでくるか思いを巡らせてみよう。 そして、二回目は「鏡」にたとえられるか、つまり、その光景がまるで現代に起こっていることを映し出しているか考えよう。映し出しているとするとどのような光景に変わってくるのか、思いを巡らせてみよう。
詩編 / 17編
1:【祈り。ダビデの詩。】主よ、正しい訴えを聞き/わたしの叫びに耳を傾け/祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません。
2:御前からわたしのために裁きを送り出し/あなた御自身の目をもって公平に御覧ください。
3-4:あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね/火をもってわたしを試されますが/汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう。わたしの口は人の習いに従うことなく/あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて
5:あなたの道をたどり/一歩一歩、揺らぐことなく進みます。
6:あなたを呼び求めます/神よ、わたしに答えてください。わたしに耳を向け、この訴えを聞いてください。
7:慈しみの御業を示してください。あなたを避けどころとする人を/立ち向かう者から/右の御手をもって救ってください。
8:瞳のようにわたしを守り/あなたの翼の陰に隠してください。
9:あなたに逆らう者がわたしを虐げ/貪欲な敵がわたしを包囲しています。
10:彼らは自分の肥え太った心のとりことなり/口々に傲慢なことを言います。
11:わたしに攻め寄せ、わたしを包囲し/地に打ち倒そうとねらっています。
12:そのさまは獲物を求めてあえぐ獅子/待ち伏せる若い獅子のようです。
13:主よ、立ち上がってください。御顔を向けて彼らに迫り、屈服させてください。あなたの剣をもって逆らう者を撃ち/わたしの魂を助け出してください。
14:主よ、御手をもって彼らを絶ち、この世から絶ち/命ある者の中から彼らの分を絶ってください。しかし、御もとに隠れる人には/豊かに食べ物をお与えください。子らも食べて飽き、子孫にも豊かに残すように。
15:わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み/目覚めるときには御姿を拝して/満ち足りることができるでしょう。
皆さんは、この詩編を「窓」として読むとき、どんな光景を思い浮かべられているだろうか? また「鏡」のように現代の光景をも映しているだろうか? 私が思いを巡らせたことは以下のような事。
「窓」として読んだ時の光景? 「ダビデの真剣な祈り」
1節に「祈り、ダビデの詩」と書いてあり、文字通り、ダビデが三千年前にこのような祈りを毎晩のように訴えていた様子を思い浮かべている。ダビデの生涯を思うと、史実として簡単に言うならば、三つの大事業を行ったと思う。一つ目は北のイスラエル国と南のユダ国の南北統一国家の建設という偉業を成し遂げた。二つ目は南北の国家統一にとどまらず、その国家領土を拡大した。 三つ目には、王国の政治支配と、ユダヤ教の民族的支配を結びつけた。 しかし、それらの三つの大事業の影には、困難で深刻な状況に何度も直面しつつ、日々の主の対話、真剣であたかも神と格闘するかのような祈りと、主なる神の導きの中で偉業の遂行が行われた様子が伺える。
詩編の構成として、1-2節、6-8節、13-14節の部分でダビデから主なる神への深刻な祈願が詠われる。3-5節ではダビデと主の関係が詠われる。9-12節ではダビデを敵とする人々が、ダビデに対してどのような行為をとろうとしているか、すなわち、主なる神を畏れないものたちとの関係を詠っている。 それらの言葉の節々に、ダビデの真剣さがあふれ出ている。さらに15節の言葉にはダビデの祈りを切実に聞いてくださる主なる神のおかげで、ダビデに生きる力が与えられるように詠っているように思う。
上記に「毎晩のように」と書いたが、3-4節の言葉に「夜なお尋ね」という言葉があることや、15節の言葉に「目覚めるときには」という言葉があり、それらの言葉から推察して、ダビデは毎晩このような祈りを主なる神に唱えていたような光景を思い浮かべる。
「鏡」として読む時の光景? 「さまざまな共同体のリーダの祈り」
ダビデに相当するような政治的かつ宗教的指導者が、国家レベルで現在の世の中に存在しているかと思うと、具体的にこの方という人は思い浮かばない。ところが、家庭、教会、市町村レベルでも、知事や州のレベルでも、あるいは国家レベルでも、信仰を持って生きている方々が、ダビデと同じように真剣に主なる神に祈り、格闘するような思いで日々の決断を主との対話の上で決めて、遂行しているリーダとそのリーダの率いる共同体が現代にもたくさん存在し、全世界に主なる神の祝福が今も、いつの時代も与え続けられているように思える。