December 14th, 2013

2013年12月12日 詩編を読もう:神を待ち望む (詩編42) 牧師:安達均

詩編を読もう, by admin1.

今週与えられている詩編は42編。最初にできる限りこの詩編作者を想像しながら詩を味わってみよう。次に、待降節にあって、主の降誕と再臨を覚えながら、神はこの詩編を通して現代を生きる私たちに何を語っているか黙想してみたい。  
  
詩編 / 42編
1:【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】
2:涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。
3:神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。
4:昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/「お前の神はどこにいる」と。
5:わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神の家に入り、ひれ伏したことを。
6:なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。
7:わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から
8:あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて/深淵は深淵に呼ばわり/砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。
9:昼、主は命じて慈しみをわたしに送り/夜、主の歌がわたしと共にある/わたしの命の神への祈りが。
10:わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ歩くのか。」
11:わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き/絶え間なく嘲って言う/「お前の神はどこにいる」と。
12:なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。

この詩編もだれが作者であるか断言はできないし、時代も明確ではない。しかし、5節の言葉から想像して、かつては喜び賛美しつつ、祭りの中をユダヤ教のエルサレムにある神殿に入り、神聖なる神の御顔(契約の箱を意味しているかもしれない)に会っている経験をした。しかし、神殿に定期的に入って礼拝するような生活はできなくなり、神殿からは遠く離れた地で、ほとんど絶望とも思えるような状況に置かれていることを詠っている。ダビデがサウルから追われほとんど絶対絶命とも思えるような状況になってしまった時のことを詠っているようにも思える。エルサレムから離れ、ヨルダンの地、さらに現在のシリアとレバノンの国境にあるヘルモン山の方まで、逃げていって、その地で、あたかも殺されるか自決せざるを得なくなる状況を待っているようでもある。詩編作者を追いつめている者は、「お前の神はどこにいるか」(4節、11節)としつこく迫っている。しかし、完全に希望を失っているわけではない、6節とまったく同じ言葉が、12節の中で繰り返されている。自ら「神を待ち望め」と詠い、さらに「御顔こそ私の救い」と告白しようと詠うなかで、神なる方、救い主、を待ち望む中に、希望を詠っているように思える。

待降節にあって詩編42編をしっかり読むことはとても意味が深いと感じる。21世紀に生きる私たちにとって、2000年前に主イエス・キリストは来られたが、わたしたちは、その当時生きていた人々のようにイエス・キリストという生身の体を持った主なる神を見ることはできない。それはある意味、この詩編作者が神の御顔を見れずにいることと共通している。現代、キリスト教を信仰していない方々から「あなたの神はどこにいるのか。」と言われてしまう面はある。それでも、この詩編作者が詠っているように、「神を待ち望め。」と私たちも自分たちに詠うことの意味がある。主なる救い主イエスが2000年前に顕われてくださったときに、再臨してくださるということが新約聖書(マタイ16:27-28、ルカ21:27、使徒1:11他)には書かれている。また、父なる神、子なるキリスト、そして、聖霊を信じるキリスト教徒にとって、復活したイエスが「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と語ってくださっていたことは、たとえ目に見えなくても、私たちの間に聖霊が、つまり、イエスの存在があることを確信できる。そして、私たちがこの世で生きている時か、天国でかはわからないが、私たちは主の御顔を見る時が訪れることを、主なる神がこの詩編を通して教えてくださっているように思える。    

詩編42編の「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」という言葉が詠われている。それは鹿にとって水が不可欠のように、どのような時代であろうが、私たち人間にとって神は不可欠の存在であり、私たちから見えるか見えないかに関わらず、神はしっかり存在してくださっている。私たちがどのような状況にあろうが、たとえ絶望と思えてしまうような状況にあっても、実は主にある希望を抱いて間違いはない。 アーメン。

Back Top

Comments are closed.