January 30th, 2014

2014年1月30 日 詩編を読もう:貧しい人が地を引き継ぐ(詩編37:10-17) 牧師:安達均

詩編を読もう, by admin1.

今週の詩編は37編を読むが、40節もある長い詩編の一部、10節から17節を読む。37編の1節から9節は昨年10月3日に読んでおり、その時何を思ったか思い起こされるのも良いかもしれない。そして、10節から17節の中で気になる言葉は何か。そして主なる神が、この詩編を通して自分に、あるいは自分の所属する家族や教会、あるいは会社でも地域社会でも、何を語りかけているか、思いを巡らせよう。  

詩編 37編
10: しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。
11:貧しい人は地を継ぎ/豊かな平和に自らをゆだねるであろう。
12:主に従う人に向かって/主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが
13:主は彼を笑われる。彼に定めの日が来るのを見ておられるから。
14:主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り/貧しい人、乏しい人を倒そうとし/まっすぐに歩む人を屠ろうとするが
15:その剣はかえって自分の胸を貫き/弓は折れるであろう。
16:主に従う人が持っている物は僅かでも/主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。
17:主は御自分に逆らう者の腕を折り/従う人を支えてくださる。

詩編37編1節から9節には、主に信頼し、主に委ねることの大切さが書かれており、9節は「主に望みをおく人は、地を継ぐ。」という言葉で終わっていた。そして10節以降は、主に従わず逆らう者はどうなってしまうか、そして主に従う者がどうなっていくかが描かれている。 

10節から17節の言葉の中で、どんな言葉が気になっているだろうか? 私の場合は11節の「貧しい人は地を継ぎ」という言葉と14節は「まっすぐに歩む人を屠ろうとするが」という言葉がとても気になっている。 最初に気になった「貧しい人は地を継ぎ」という言葉、今度の日曜日に読む福音書、マタイ5章の山上の説教の最初の部分、イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」と話し始めており、多いに関係があると思う。イエスは当然、旧約聖書の詩編のこともよくわかっておられるなかで、山上の説教を語られたのだと思う。しかし、日本語の翻訳の問題もあるかと思うが、イエスのこの言葉は、この世の常識からすれば「なんで心の貧しい者が幸いなんですか?どうして神の国は心の貧しい者たちのものなのですか?」と質問したくなる。 今日の詩編の箇所は、山上の説教の最初の言葉を理解する上で、とても参考になるように思う。 詩編作者の記した「貧しい人」もイエスの言う「心の貧しい者」も、貧しい故に主を信頼し、主に委ねる人のことを言われているように思う。 次に気になる言葉として「まっすぐに歩む人を屠ろうとするが」と上記に書いたが、私はこの言葉の中に、「まっすぐに歩んでいたイエスが屠られるが、しかし、死をもって死を滅ぼされた主なる神、イエスキリスト」のことが思い浮かんでくる。

今日の詩編箇所を繰り返し読む中で、繰り返し起こってしまう乱射事件のことを考えている。 15年前コロンバイン高校で亡くなった高校生や教師、7年前のバージニアテックの大学生や教授、二年と少しを経過したがコネチカット州サンディフック小学校で亡くなった小学生たちと教師たち、いまだに遺族の気持ちを考えるといたたまれなくなる。 しかし、犠牲者たちは、天の地を引き継いでいるのだと思う。いたたまれない中に希望を抱いている。 銃を乱射した者たちについては、結局15節の言葉にある「その剣はかえって自分の胸を貫き、弓は折れるであろう。」ということが現実になったように感じている。それにしても、犯人となった若者たちが、もし、この詩編を真剣に読む機会があったら、このようなことは起こらなかったのではと悔やむ。 私が間違っていて、「この詩編を読んだが、あのような犯行に及んだんだ。」ということが全く無いとは言い切れない。 しかし、私は何千年前からも、創造者なるお方、神が人類に残してくださった聖書に記されたストーリが、現代に育つ私たちにも、繰り返し語られることの大切さを思わずにはいられない。  

一人でも多くの者が主に従う者とされ、豊かな平和に自らをゆだねる生活をいとなみますように。 アーメン 

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