今週は119編の一部を読む。この詩編は176節もあり、詩編の中で一番長い。また聖書全体の中でもこんなに長い176節もある章はない。詩編119編は、それぞれの段落がヘブライ語のアルファベット22文字の順番になっていて、22の段落によって構成されているため、こんなに長い一編になってしまったのだろう。
今週はその詩編の14段落目、105節から112節だけを読む。いつものように気になる言葉は何か、次に詩編作者の気持ちになって読み考える。さらに、主なる神がこの詩編を通して自分に何を語りかけているか、思いを巡らせよう。
詩編 119編
105: あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。
106:わたしは誓ったことを果たします。あなたの正しい裁きを守ります。
107: わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり/命を得させてください。
108:わたしの口が進んでささげる祈りを/主よ、どうか受け入れ/あなたの裁きを教えてください。
109:わたしの魂は常にわたしの手に置かれています。それでも、あなたの律法を決して忘れません。
110:主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。それでも、わたしはあなたの命令からそれません。
111:あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。それはわたしの心の喜びです。
112:あなたの掟を行うことに心を傾け/わたしはとこしえに従って行きます。
105節の言葉は、どこかで見たことがあるという方が多いと思う。あるいは暗記しているという方もいると思う。毎月の聖書日課を準備する時に、私はこの詩編の105節を空きスペースに挿入することもある。 本日新たに、この段落全部を読み通してみると、107節の「わたしは甚だしく卑しめられています。」という言葉と110節の「主に逆らう者がわたしに罠を仕掛けています。」という言葉が気になってしょうがない。
この詩編作者の立場を思うと、107節と110節の言葉からして、とんでもない人生の深いトラブルに巻き込まれている状況が想像できる。 この段落の最初、105節は人生を旅路にたとえて、詩編作者のすばらしい感性に感動するが、この段落全体からは、詩編作者が抱える根深い問題があるため、とんでもない人生の真っ暗闇を通っている様子が伺える。 まさに「お先真っ暗」ともいうような状況に遭遇している。 そしてその暗闇にありながらも、詩編作者の心に刻まれている主なる神の、「御言葉」「律法」「命令」「定め」「掟」を携えてその真っ暗闇を歩み続ける。この詩編作者の歩む人生が、どうしようもない暗闇であるがゆえに、「御言葉」が「道の光」であり「歩みを照らす灯火」であるというすばらしい比喩も生まれてきたのかと思う。それにしても、この詩編作者は旧約聖書時代の人であり、「御言葉」としているのは、旧約聖書の最初の五つ書、「モーセ五書」に記された何百もの掟のことを指しているのかと思う。尊敬の念を抱く。
さて、自分に神が何を語りかけているかということを思うと、9日の聖日に与えられているマタイ福音書箇所(マタイ5:13-22)との関連から、この詩編に詠われている内容について思いを巡らしている。上記に詩編作者に対して「尊敬の念を抱く。」と書いたが、次のような主イエスキリストの言葉があったから。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。」 しかし、かといって、詩編作者が暗記していたと思われる何百もの掟を覚えることが、神の御心であると言われているようには思えない。イエスが最も大切な掟として教えてくださっていた、「主なる神を愛すること」が最も大切な掟であり、それと同じ位重要な掟が「隣人を愛すること。」そして、律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。と言われていたことを思い出す。西郷隆盛は「敬天愛人」という言葉を書き残しているが、私たちの人生でどんな暗闇の道を歩むことになろうが、日本語ではこのような文字に表された言葉が、その暗闇の中で光となって、人生の歩みを継続できる。
最後に一言。西郷隆盛は一度は自殺未遂をした人である。しかし、助かり、天がどれだけ自分のことも愛してくださったかに気付いたようだ。 私たち人間は、「敬天、つまり創造主なる神を敬う」だけでなく、ヨハネ3章16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」にあるように、主なる神が、とてつもなく、この世の人々を愛してくださっていることも、覚えよう。アーメン。