February 27th, 2014

2014年2月27日 詩編を読もう:「主を避けどころとする幸せ」 (詩編2編)

詩編を読もう, by admin1.

来る日曜日は主の変貌日となる。山上で三人の弟子たちを前に、主イエスの姿が真っ白に輝き、数百年前の預言者、モーセとエリヤがその場に顕われるという奇跡が起こる。その変貌主日の三日前から与えられている詩編は2編となる。いつものように気になる言葉は何か、次に詩編作者の気持ちで考える。さらに、主なる神がこの詩編を通して自分に何を語りかけているか、思いを巡らせよう。  

詩編 2編
1: なにゆえ、国々は騒ぎ立ち/人々はむなしく声をあげるのか。
2:なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか
3:「我らは、枷をはずし/縄を切って投げ捨てよう」と。
4:天を王座とする方は笑い/主は彼らを嘲り
5:憤って、恐怖に落とし/怒って、彼らに宣言される。
6:「聖なる山シオンで/わたしは自ら、王を即位させた。」
7:主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。
8:求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし/地の果てまで、お前の領土とする。
9:お前は鉄の杖で彼らを打ち/陶工が器を砕くように砕く。」
10:すべての王よ、今や目覚めよ。地を治める者よ、諭しを受けよ。
11:畏れ敬って、主に仕え/おののきつつ、喜び躍れ。
12:子に口づけせよ/主の憤りを招き、道を失うことのないように。主の怒りはまたたくまに燃え上がる。いかに幸いなことか/主を避けどころとする人はすべて

どんな事に思いを巡らせているだろうか? 私は気になることばとして、12節の「子に口づけせよ。」「子」とはだれだろうか。以下に書くことになると思うが、主イエスキリストのことだと思う。そのしきたりが今も守られているかどうかはさだかではないが、ロシア正教会の礼拝では、最後に参拝者が前に出て行って神父の持つ十字架にキスをするということが行なわれていたことを思い出す。 

詩編2編の作者を特定することはできないが、神の言葉を預かった預言者の一人なのだと思う。 神の言葉がたくさん引用され、インパクトのある言葉が詠いこまれている。 1-3節では、世の政治家のような者になることのむなしさが詠われている。 唯一の神への信仰を持たずに政治活動に一生懸命になり、自分たちで勝手な法律を決め、国の領土を定めようとすることのむなしさ、主に従わないことへの嘆きが詠われている。4節から6節では、あたかも詩編作者が天を王座とする神と出会い、世のむなしい政治家たちを嘲り笑い、憤って、宣言される。「わたしは、このシオンにおいて、自ら王を即位させた。」その王とはだれか?ダビデだろうか? 私は、すでに主イエスのことが詠われているように思う。 7節から9節では、預言者が主から語られた言葉をそのまま詠う様子が思い浮かぶ。「お前(即位させた王)は私の子である。私が生んだ。私に尋ね求めよ。私はすべての国々をお前の受け継ぐべき土地、領土とする。」 そして10節から12節では、世の政治家たちに、またその国々を支配している気持ちになっている王たち、統治者たちに、その主を畏れ敬って、主に仕え、喜び踊るがよい。 その主にキスせよ。 主が憤って怒るようなことがないように。そして、12節の最後に「いかに幸いなことか、主を避けどころとする者はすべて。」という詩編1編の最初の言葉と同じ「いかに幸いなことか」が詠われて終わる。 

この詩編を通して、神は現代の私たちに何を語られているのだろうか? とくに日本的あるいはアジアの文化や宗教観を考えると気づかされることがある。村や地域をとりしきる長なる人々、あるいは地球上に存在する多くの国々の首相とか皇族、あるいはさまざまな宗教団体の教祖とかやおよろずの神々たちに、この詩編は強く迫ってきているように思う。「お前は私の子」という言葉は、主イエスキリストの洗礼時や、また来る日曜日に祝う主の変貌日に、天から聞こえた「これは私の愛する子」という言葉と同じなのだと思う。 つまり、地球や太陽をも創られたすべての創造主なる全知全能の神が、イエスと全地球に住む統治者とかやおよろずの神々に語る「イエスは私の愛する子である。すべての国々、すべての土地をイエスの受け継ぐ領土とする」という宣言に聞こえる。それゆえ、この世に生を持ったものは、すべて、この主なるお方を畏れ、敬い、愛し、そして、その主なるお方を避けどころとすることが幸せであり、また、聖書全体に語られていることからして、主イエスを避けどころとすることが永遠の命に生きることなのだと信じる。 

詩編1編と2編は詩編全体の前置きで、詩編150編全体の鍵となる事が詰まっている。また詩編150編全体には、聖書全体のエッセンスがまとめられているような面がある。 また、主の変貌日の奇跡は、主の十字架の死そして復活への前触れのような面がある。 アーメン 
牧師 安達均

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