四旬節に入って、二週間が過ぎた。私たちの主なる神とは違う方向を向いたり、背を向けて行動したりしてしまう自らの罪を覚え、新たに主に向き直る期間として過ごしておられるだろうか。今週は詩編95編を読む。四旬節にふさわしい詩編だと思う。なるべく3回は読んでみてはどうだろうか。そして一回目は気になる言葉や節はなにか? 二回目は、詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして三回目は、神はこの詩編95編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。
詩編 / 95編
1:主に向かって喜び歌おう。救いの岩に向かって喜びの叫びをあげよう。
2:御前に進み、感謝をささげ/楽の音に合わせて喜びの叫びをあげよう。
3:主は大いなる神/すべての神を超えて大いなる王。
4:深い地の底も御手の内にあり/山々の頂も主のもの。
5:海も主のもの、それを造られたのは主。陸もまた、御手によって形づくられた。
6:わたしたちを造られた方/主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう。
7:主はわたしたちの神、わたしたちは主の民/主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
8:「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように/心を頑にしてはならない。
9:あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した。
10:四十年の間、わたしはその世代をいとい/心の迷う民と呼んだ。彼らはわたしの道を知ろうとしなかった。
11:わたしは怒り/彼らをわたしの憩いの地に入れないと誓った。」
気になる言葉としては、メリバやマサという地名。これらの地名の由来は、40年に及ぶエジプトからイスラエルへの大移動の際、民が神とモーセに文句を言って争った場所であり、また神を試した場所とされる。23日の聖日に礼拝の中で読まれる第一日課、出エジプト記17章の1-7節にそのときの様子が描かれており、7節には、モーセがその場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名づけたと書かれている。
詩編作者は、たった11節の詩編の中で礼拝を想像しながら詠っているように思える。 1節から7節に詠われている内容は、礼拝への招きの讃美歌を歌っているようである。讃美歌21の20番「主に向かってよろこび歌おう」は詩編95の内容が詠われている招きの歌。もう一曲紹介すると、讃美歌21の226番「輝く日を仰ぐとき」も詩編95を含む讃美歌で、英語でも日本語でも、とてもポピュラー。 そして、讃美歌の後は、やや辛口の司祭の説教が詠われているように思える。 その説教の要点は、「エジプトからイスラエルに移動しているとき、昔の民がしたように、神に逆らったり、神を試してはならない。また自分勝手な思いから心を頑(かたく)なにしないように。」 旧約聖書時代の礼拝であるため、使徒信条の唱和や聖餐式、主の祈りなどは無い。
この詩編を通して、神が私たちに何を語りかけておられるかを考えてみたい。上記に書いたような説教の要点、「昔の民のように、神に逆らったり、神を試したり、あるいは自分自身の心を頑なにしないように。」というメッセージはとてもわかりやすく、頭で理解することはできる。しかし、神が現代を生きる私に上記のような事をしないようにと言っているだけだとすると腑に落ちない。というのは、その内容を守り続けられるかというと首を傾げざるを得ないから。自分が知らないうちに、神に逆らうような言動をしたり、神を試すような行為をしてしまったという経験がだれにでもあるのではないかと思う。では、そのような状況に落ち込んでしまったとき、どのように立ち直れるのだろうか? 私は、イエスキリストが生まれてから私も生まれた人間でよかったと思う。それは、神が独り子イエスの生涯を通して、次のような事を教えてくださったから。私たち人間が過去にどのような罪をおかしていようが、つまり人間が失敗をして悔やんだり、恥ずかしくてしょうがないようなことがあっても、神から私たちへの愛が弱められるようなことはない。徹底的に神が私たちを赦し、愛してくださっている。
東日本大震災が起こって、3年と一週間が過ぎた。いまだに、亡くなった肉親や友人のことを思い、悔やんでいる方々のことを思う。その悔やみからの解放はどのようにすれば訪れるのか? 主なる神、救い主イエスキリストによって癒され、解放が訪れるように祈る。 アーメン。
安達均