June 19th, 2014

2014年6月19 日 詩編を読もう:孤立無援でもあきらめずに祈る (詩編69:8-19)

詩編を読もう, by admin1.

今週は詩編69編を読むが、8節から19節に集中して読む。いつものように気になる言葉や節はなにか? 詩編の作者の気持ちになってどのようなことを詠っているのか、よく考えてみよう。そして神はこの詩編69編を通して何を語りかけているか思いを巡らせよう。
 
詩編 69編8-19節
8:わたしはあなたゆえに嘲られ/顔は屈辱に覆われています。
9:兄弟はわたしを失われた者とし/同じ母の子らはわたしを異邦人とします。
10:あなたの神殿に対する熱情が/わたしを食い尽くしているので/あなたを嘲る者の嘲りが/わたしの上にふりかかっています。
11:わたしが断食して泣けば/そうするからといって嘲られ
12:粗布を衣とすれば/それもわたしへの嘲りの歌になります。
13:町の門に座る人々はわたしを非難し/強い酒に酔う者らはわたしのことを歌います。
14:あなたに向かってわたしは祈ります。主よ、御旨にかなうときに/神よ、豊かな慈しみのゆえに/わたしに答えて確かな救いをお与えください。
15:泥沼にはまり込んだままにならないように/わたしを助け出してください。わたしを憎む者から/大水の深い底から助け出してください
16:奔流がわたしを押し流すことのないように/深い沼がわたしをひと呑みにしないように/井戸がわたしの上に口を閉ざさないように。
17:恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください/憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。
18:あなたの僕に御顔を隠すことなく/苦しむわたしに急いで答えてください。
19:わたしの魂に近づき、贖い/敵から解放してください。

気になる言葉や節はなんだろう? 私の場合は17節にある、「恵みと慈しみの主よわたしに答えてください/憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。」 

詩編作者の立場を思って詩編69編を読んでいきたい。 1節には、例によって「ダビデの詩」とあるが、これはかならずしもダビデが詩編作者であると断定できるものではない。 原語のヘブル語では、「ダビデのための詩」と解釈することもできる。 ダビデ以降の時代の詩編作者がダビデが経験したのと同じような絶対絶命とも思われるような状況に遭遇して、ダビデのことを思い作詩したとも考えられる。 8節から10節は一見、主への文句とか愚痴ともとられてしまうような詩編作者のつぶやきを詠う。8節は、大胆な言葉だと思うが、あなた(主なる神)への(私の信仰)のために、私は嘲られ、侮辱されている。9節では、兄弟すらも私をだめ人間と見放し、外国人であるかのように扱う。10節では、主の神殿への思いが私の心を占めているがゆえに、主を嘲るものは、私も嘲る。 ちなみに10節前半の言葉は、ヨハネ2章で人々が神殿を商いの場所としてイエスが激怒した際、その17節でこの詩編箇所が引用されている。11-13 節も、いわば作者のおかれた悲惨な状況が続く。11節12節では信仰者のしきたりである、断食をしたり、粗布をまとうようなことをすると、ますます嘲りの対象となる。13節では、街頭でたむろし酒に酔っている者も、私を非難し、笑いものとしている。14節から18節までは、繰り返し嘆願の祈りに入っているが、まず、「御旨のかなうときに」という謙虚で、辛抱強い言葉を伴った上で、嘆願の連発となっていく。神は豊かな慈しみの方なのだから、私に答えてください。(14節後半) 泥沼にはまったままにしておかずに救い出してください 。(15節) まるで激しい水の流れが私を押し流したり、深い沼が私を飲み込んだりしないように、また深い水底にいるような私を助け出してください。(16節) あなたは恵みと慈しみに富む方ですから私に答えてください。憐れみ深い神様、私にその顔を向けてください。(17節)  その御顔を私から隠すことなく、苦しんでいる私に急いで返答してください。(18節) わたしの魂に近づいてきて、敵、嘲る者たちから解放してください。(19節)

この69編を通して、主なる神は現代の私たちに何を語られているのだろうか? この詩編作者の信仰から、大きな学びがあるように思う。キリスト教徒ではない友人が、25年くらい前になるが、私が家族で毎週教会に行っている事を知り、「自分の知るクリスチャンの人たちは、みな苦しい生活を強いられている。」と語った。彼はだから自分がクリスチャンにならないとかクリスチャンをばかにするという言動を私に語ったわけではないが、きっぱりと私との距離を置かれてしまった気がする。私のその時の気持ちは、詩編69編の作者が8-13節で詠っていることと、共通したような面があるように思う。キリスト信仰者であるがゆえに、孤立無援であるかのような状況に置かれたと思うことがある。しかし、恵みと慈しみに富み、そして憐れみ深い主なる神が、そのような状態を放置することはないという信仰を支えに祈り続けることは大切。主の思いにしたがって生かされ続けよう。上記に書いた友人からは数年後に、ある伝統的なキリスト教会での結婚式をするとのことで招待状が届き参列した。アーメン 
安達均 

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