July 23rd, 2014

2014年7月22日アーバイン家庭集会#4放蕩息子の譬え(Prodigal Son)

家庭集会報告(Bible Study etc.), by admin1.

今回も引き続き「奇跡と譬え話」シリーズを勉強しています。

カール先生の熱の入った丁寧な説明に
私達も大いに盛り上がり楽しい学びの会で次回が待ち遠しい思いです。

Luke 15 : 11 -32 ルカによる福音書15章11節〜32節untitledhoutoumusuko

今日学ぶ箇所はあまりにも有名な箇所で、それぞれが何度か学んだ箇所ではないかと思う。ルカの15章には、「放蕩息子」の譬えの前に「見失った羊」の譬えと「無くした銀貨」の譬えが書かれている。見失った羊を羊飼いは見つかるまで探す、同じように、なくした銀貨を女は見つかるまで探す、どちらも共通しているテーマは「一生懸命に見つかるまで探し続ける」所にある。
さて、この放蕩息子の父親はどうだろうか? 様々な角度からこの譬え話に書かれている神の真意を学んで行こう。先ず、英語の”Prodigal”とはどういう意味だろう? 日本語では「放蕩息子」と訳されているが、実際は “waste”「浪費、無駄にする」という意味がある。何を無駄にするのか、それも考えながら学びを進めて行きたい。
この父親には二人の息子がいた。ある日、次男が父親に財産を分けてくれるようにと言う。父親がまだ健在だというのに、このような大それた事を要求してくるなど、本来なら考えられないことである。近所となりの人達はそれを聞いてびっくりしただろうし、きっとこの次男坊は父親から追い出されるに違いないとまで思ったかもしれない。ところが、この父親はこの息子を怒るどころか、言われるままに、財産を二人に財産を分けてやった。ここで注意したいのは、二人に分けてやったのだから、長男も彼の分をちゃんと貰ったわけである.そして、次男は家を出る決心をする。自分の分け前を全部金に換えて他の土地に行ってしまう。(カール先生はラスベガスと言っていたが、正に適切! )彼が家を出る事で、父親はさぞかし悲しんだであろう。長男は弟が勝手に家を出て行けば、自分が二人分働かなくてはならないし、父親の面倒も自分が見なくてはならない、さぞかし頭に来たにちがいない。近所の人達と言えば、この土地を捨てて他の土地に移り住むという次男からまるで侮辱されたかのように思っただろう。
ここで明らかな事は、次男が取った行動は、彼と父親、兄、そして近所の人達との関係を無駄にしてしまったのだ。He wasted the relationship with his father, brother and neighbors. 家を出た後、次男坊は放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。彼が友達だと思っていた人達も、ひとたび彼が無一文になると、誰も彼を助けてくれなかった。誰からも見放されて、食べる物にも困り始めた次男坊が最後にありついた仕事は、豚に餌をやる仕事だった。ユダヤ人は豚を食べないから、豚に餌をやる仕事とは、最低も最低で、彼は自分の生まれ育った信仰にも背くことになってしまった。しかも、豚の餌であるいなご豆を食べてでも腹をみたしたかった、と書いてある程誰も彼に食べ物をくれなかった。そこで、彼は我に返った(came to his senses)、と書いてある。この「我に返った」というのはどういう事だろうか? 自分が悪かったと心から反省したのだろうか。多分そうではないだろう。彼はきっと、「そうだ、父の所に帰ろう。父の所では、あんなに大勢の雇い人に有り余る程のパンがある。帰って父にこう言おう『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にして下さい』、と」そう言えば自分はまた父の所で、自由に暮らす事ができるだろうと思ったに違いない。だから彼は何度もその台詞を頭の中で練習しながら父親の元へ向ったのだろう。ここで注意したいのが彼の練習している台詞の最後の箇所である。「雇い人の一人にして下さい」というのはどういう事か? 当時使用人には3つのランクがあり、奴隷同様に主人に使える使用人、家族の世話をして一緒に住んでいる使用人、そして最後が雇われて給料をもらい、自分の家に住める使用人。そして最後が雇われて給料をもらい、自分の家に住める使用人。次男坊は、こんな目にあってもまだ悪賢く、どうすれば自分の自由に思うような生活ができるかだけを考えている事が理解できる。そうやって帰って来た次男坊は、父親はまだ遠くに離れているのに息子だとわかり、憐れに思い、走り寄って首を抱き接吻した、とある。ユダヤの習慣からすると考えられない事だ。息子が父親の所に走り寄るのが当然であって、父親から息子の所に走り寄る等考えられない。遠くから直に息子だと解ったというのだから、きっとこの父親は窓辺にでも座って、毎日のように息子の帰りを待っていたのだろう。普通の父親なら勘当したであろう放蕩息子の次男の帰りを待っていたのだ。
そして次男は何度も繰り返し暗記してきたであろう台詞を言いだす、「お父さん、私は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」ところが、そこまで言った時に父親は彼の台詞を最後まで聞かずに、雇い人達に命じて、一番良い服を持ってこさせ、指輪をはめさせ、足に履物をはかせ、しかも肥えた子牛を屠ってお祝いをしようと言ったのだ。この父親は、帰って来た息子はどんな息子であれ、雇い人になる必要はなく、愛する子として受け入れたのである。近所の人達にとっては何とも理解しがたい父親の態度だったであろう。自分勝手で悪賢い息子の思い通りになっているような、どうしようもない父親だと思ったかもしれない。そして長男が仕事を終えて帰って来ると、どんちゃん騒ぎが聞こえる。一体これは何事か、と僕の一人に聞いて事情を知った途端に、この長男は怒り狂った。家に入ろうともしない長男の所に父親が出て来てなだめる。これも考えられない話で、父親がへそを曲げた子供の所に来るなんて考えられない事である。しかし、父親にはこの長男の気持ちがきっと良く解っていたのに違いない。長男の口から「こんなに私が一生懸命に働いてお父さんに仕えているのに、あなたは宴会などしてくれた事はない、ところがあなたの息子が (自分の弟とは言わない )娼婦らと一緒に身上を食いつぶして帰って来たら、子牛を屠って宴会を開くなんて!」と文句が出るのに対して、父親は相変わらず穏やかに、「お前はいつも私と一緒にいて、私の物は全部お前の物だし、死んだと思っていた弟が見つかったのだから、楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言った。そこでこの譬えは終わっている。だからこの長男が父親の言う事を理解して家に入って行ったか、それとも自分の言い分を通して、頑固に家には入らず、弟にも会わずに自分の場所に戻っていったか、どうだろう?  この譬え話からそれぞれが考える事は当然違うだろう。多分同じだと思うのは、次男坊がとんでもない悪賢い人間だという事だろう。反面、兄は真面目で一生懸命に働き、父親に仕えているけれど、よく考えて見ると、何で自分ばかり苦労しなくてはならないのか、といつも苦々しく思っていたかも知れない。そして、弟に対して恨みつらみがあったに違いない。一生懸命に働いている自分が正しいに決まっていると思っていただろう。だから弟を迎え入れた父親に対して不満もあっただろうし、不公平だと思ったであろう。

考えてみると、殆どの私たちにとって、この長男の気持ちは解り過ぎる位解るのかもしれない。それは、きっと私たちが「自分はいつも頑張って正しい事をしている、ちゃんとやっている」と思っているからではないだろうか。私はこの学びを通して、この長男が被害妄想から抜け出さない限り、きっと彼は一生幸せではないだろうと思った。そして次男の方は、悪賢い自己中心から、本当の意味で「我に返る」ことが出来なければ、救いは無いと思う。このどうしようもない次男坊や、自分を正当化する長男を、父親はこよなく愛しているのだ。自分から息子達に手を差し伸べているのだ。どうしようもない私たちに、神様はこの父親のように来て下さる。手を差し伸べて下さる。私たちはそれにどう答えて行けるだろう。本当に我に返って、「自分が悪かった」と素直に父親に言う次男になれるだろうか。「そうですね、一緒に喜びましょう」と素直に父親と家に入って弟の帰りを喜べる長男になれるだろうか? こんなにも神様の愛が深い事を、私たちは解っているのだろうか。
芙美Liang記

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