August 13th, 2014

2014年8月12日アーバイン家庭集会「ラザロの死」

家庭集会報告(Bible Study etc.), by admin2.

ヨハネによる福音書11章1節から44節までを読み、イエス様がラザロを生き返らせた奇跡の経過を学びました。       記録をご覧下さい。質問、ご意見、大歓迎です。

The Raising of Lazarus ラザロの死

John 11:1-44 ヨハネによる福音書11章1節〜44節

最初に、ラザロという名前はどういう意味だろう。ラザロは “Eleazar”の略で、「神に助けられた人」と言う意味である。  イエスはラザロをただ助けただけでなく、生き返らせたのである。1節から44節までを注意深く読んで行こう。

ラザロが病気だという事を、ラザロの姉妹であるマリヤとマルタがエルサレムに居るイエスの所にメッセージを送った。   この時、彼女達はラザロが重病なのにも拘らず、決してイエスに「すぐ来て下さい」とは言わなかった。きっと彼女達は、  ラザロを愛するイエスが、必ず善き行動をとって下さると信じていたのだろう。                    私たちが年がら年中祈りの中で「イエス様、こうしてください、ああしてください」と指示するのとは全く違うではないか。

4節で、イエスが「この病は死で終わるものではない」と言っているが、その意味は、ラザロが最終的に死に至るのは、今のこの病いが原因となるのではない、という意味である。という事は、イエスは自分がラザロを生き返らせる事をすでにご存じなのだ。ところが、イエスはラザロが病気だという知らせを聞いた後、すぐに彼の所には行かなかった。聖書には、「なお二日間同じ所に滞在された。」と書いてある。なぜ直ぐに飛んで行かなかったのか? 答えは4節に書かれている、「神の栄光の為である。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」。どういう事かと言うと、病気の時に行って癒してあげるよりも、肉体が完全に死んでしまい、誰が見ても生き返るはずはない、という状態の時に生き返らせてこそ、本当の神の栄光を人々にわからせる事が出来るからである。イエスが神の栄光を受けた神の独り子であり、神から特別の力を与えられた救い主である事を人々が完全に理解するには、ここまでしなければならなかったのである。

さて、7節から10節を読むと、イエスは「もう一度ユダヤに行こう」、と弟子達にいわれる。ヨハネの10章31節にも書かれているように、イエスは、以前そこでユダヤ人達に石で撃ち殺されそうになった。そんな場所になぜまた行くのですか、と弟子達は驚いたであろう。しかしイエスには彼の考えがあった。ラザロの住むベタニヤはユダヤの地域にある村だった。イエスは先ずユダヤに向かい、それからラザロの住むベタニヤに行く考えだったに違いない。11節に、「わたしたちの友ラザロが眠っている、しかし、わたしは彼を起こしに行く。」と言われている。ここで面白いのは、弟子達は、実際にラザロが病気で寝ていると思って、イエスの言われた言葉に対し「主よ、眠っているのであれば助かるでしょう。」と答えている。         しかし、ここでイエスははっきりと「ラザロは死んだのだ。」と言われ、「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたたちにとってよかった。あなた達が信じるようになるためである。」と語っている。ここでイエスが意としているは、もし自分がその場に居て、死にそうなラザロを生き返らせただけなら、弟子達にとって、今までの奇跡と同じように、「すごいなー」で終わってしまい、また直ぐにイエスが神の独り子である事実を忘れてしまうに違いないからなのである。

イエスがそう言われた後、トマスが直にこう言っている、「わたしたちも一緒にいって死のうではないか」と。きっとトマスは、イエスが以前ご自分の死を預言された事を思い出し、もしかしたらイエスがそこで死ぬのかもしれないと思い、自分たちも一緒に死のう、イエスを一人では死なせない、そんな気持ちでそう言ったのであろう。実際にイエスは後に十字架に架かるが、一人として一緒に死んだ弟子は居なかった。この箇所から学ぶ事は、私たちがその時は誠心誠意そう思って言っている事でも、実際にその状況に直面した時、そう行動できるかどうかわからない、という事なのだ。多分できない時の方が多いに違いない。

さて、イエスが来たと聞いてマルタは迎えに行った。イエスは村の門外に居た。ベタニヤはエルサレムの近くにあったので、沢山の人がラザロの家に集っていた。すでにラザロが死んでから4日も経っていた。マルタは心の中できっと葛藤があったに違いない。だから、イエスに会うなり彼女はこう言っている、「主よ、もしここに居て下さったら、私の兄は死ななかったでしょうに。」そしてすぐその後にこう言い足している、「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえて下さると、私は承知しています。」 彼女の中には、きっと悲しみと希望の葛藤があったに違いない。そこでイエスは「あなたの兄弟は生き返る」と言われる。マルタはそのイエスの言葉を、終わりの日の復活のことを言われているのだと思うのだが、イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」と答えている。その意味は、ラザロが生き返るのは、復活ではなく蘇生(Resurrection ではなくてResuscitation)であり、復活は神の子であるイエスの甦りだけが復活である事を意味している。死んでも生きる、という事は、この世でイエスの復活を信じる者には、永遠の命が与えられるという意味なのである。マルタはそれを「信じます。」と答えている。イエスはその後マルタと一緒に家には行かずに、マルタにマリヤを呼びに行かせている。それはマリヤにもマルタに話した事と同じように話す機会を平等に与える為にである。マリヤが急いで立って出て行くのを見た人達は、マリヤがきっとラザロの墓に泣きに行くのだろうと思いマリヤについて村の外まで出て来る。ここで明らかになるのが、なぜイエスが村の門外にいたのか、ということだが、その当時の墓地は村の外にあった。正にその状況を想像すると、全てが神様のご計画通りに行われていたのである。イエスが神の栄光を解らせたいと願っている人達が全てその場に集って来ていたのだ。マリヤもマルタと同じように、「主よ、もしここに居て下さったら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言う。そして、マリヤは泣き、一緒にきたユダヤ人達も泣いているのを見て、イエスは憤りを覚えた、と書かれている。それはきっと、マリヤは本当に悲しんで泣いているのに、着いて来たユダヤ人達の中には、多分雇われて、葬式の時に大声を出して泣く人たちがいたからであろう。「心に憤りを覚えた」と二度も書かれて強調されているのは、 それほどまでにイエスが憤られた事が重要な事だからである。イエスは嘘の涙を流しているユダヤ人達に憤りを覚えられ、  盲人の目を開けたこの人も、ラザロを死なないようにはできなかったのか、と疑う人達に憤りを覚えられた。

35節に、イエスは涙を流された、とあるが、聖書の中でイエスが涙を流されたと記されているのはこの箇所だけである。それほどまでにイエスはラザロを愛し、それだけでなく、マリヤやマルタも憐れんだのである。イエスの涙はイエスの博愛を表している。

そして墓に来たイエスは、洞窟の入り口にある石を取り除くようにと言われた。ご自分で石を動かす事は容易だったに違いないが、イエスはご自分で手を触れずにこの奇跡を行われたという状況がここに描かれている。マルタは、村の外でイエスと話した時には、はっきりと、「はい、信じます。」と答えたにもかかわらず、ここではイエスに、「四日もたっていますから、もうにおいます。」と言っている。いかに私たち人間が、「はい、信じます」と言いながらも、神の偉大な力を信じる事を忘れてしまうか、この箇所から読み取る事ができるのではないだろうか。だからイエスが41節と42節で、わざわざ、「父よ、わたしの願いを聞き入れて下さって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださる事をわたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆の為です。 あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせる為です。」と言われるのである。そしてイエスはそう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で呼ばれた。手と足に布を巻かれたままのラザロがイエスに言われるままに出て来ると、きっと群衆は口をあんぐり開けたまま、驚いてラザロを凝視していたに違いない、だからイエスは「ほどいてやって、行かせなさい」と、突っ立ってラザロを見ている群衆に命じたのだ。イエスの憐れみである。

45節に、この話の結末が書かれている。「イエスのなさった事を目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。」こう書かれているように、4節にも書かれているように、「神の子がそれによって栄光を受けた」のである。この栄光とは、 私たちが思っているこの世的な名誉や栄誉ではなく、偉大なる神の栄光である。

今日の学びを通して私個人が感じた事は、イエス様がわざわざラザロが死んで四日も経ってからラザロを生き返らせたのは、 イエスの弟子達が、イエス様が盲人を癒したり、5千人を満腹にさせたりして、何度もイエス様の奇跡を目撃しているにも拘らず、未だに100%イエス様が神様である事を信じられない事実、そして多くのユダヤ人達も、私たちも、同じようにイエス様に救われながらもそれを解っていない悲しい事実、それらに対してイエス様が、これでもか、これでもか、と私たちに示して下さっている憐れみなのではないだろうか、という事なのです。私たちは、イエス様を信じます、と口々に唱えながら、直ぐに自分の周りで起こっている現実に振り回されて、共に居て下さるイエス様の存在を忘れていないでしょうか? イエス様を信じる事によって、日々新しくされ、この世を生き生きと過ごせる事を忘れていないでしょうか? 私たちもラザロと同じように、 毎日主イエス・キリストに在って、生き返る事ができるようにと切に祈ります。

芙美Liang 記

 

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